越前・黒龍伝説

福井県嶺北地方の黒龍についての伝説や言伝え また、 毛矢黒龍神社に関する言伝えなど

2008年2月20日水曜日

太平記  巻第二十

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太平記に記されている黒龍神社前での戦い。このとき神社は焼失している。
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太平記巻第二十

黒丸城初度軍事付足羽度々軍事
(くろまるのじゃうしょどいくさのことつけたりあすはどどいくさのこと)

新田左中将(さちゆうじやう)義貞(よしさだ)朝臣(あそん)、
去(さる)二月の始(はじめ)に越前(ゑちぜんの)府中の合戦に打勝給(うちかちたまひ)し刻(きざみ)、
国中の敵の城七十(しちじふ)余箇所(よかしよ)を暫時(ざんじ)に責(せめ)落して、
勢(いきほ)ひ又強大(かうだい)になりぬ。

此(この)時山門の大衆、皆旧好(きうかう)を以て内々心を通(かよは)せしかば、
先(まづ)彼(かの)比叡山(ひえいさん)に取上(とりのぼり)て、南方の官軍(くわんぐん)に力を合せ、
京都を責(せめ)られん事は無下(むげ)に輒(たやす)かるべかりしを、
足利(あしかが)尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)、
猶越前の黒丸城(くろまるのじやう)に落残(おちのこり)てをはしけるを、
攻(せめ)落さで上洛(しやうらく)せん事は無念なるべしと、
詮(せん)なき小事に目を懸(かけ)て、大儀を次に成(なさ)れけるこそうたてけれ。

五月二日義貞(よしさだ)朝臣(あそん)、自ら六千(ろくせん)余騎(よき)の勢を率(そつ)して国府(こふ)へ打出(うちいで)られ、
波羅密(はらみ)・安居(はこ)・河合(かはひ)・春近(はるちか)・江守(えもり)五箇所(ごかしよ)へ、五千(ごせん)余騎(よき)の兵をさし向(むけ)られ、足羽城(あすはのじやう)を攻(せめ)させらる。

先(まづ)一番に義貞(よしさだ)朝臣(あそん)のこじうと、一条の少将行実(ゆきざね)朝臣(あそん)、
五百(ごひやく)余騎(よき)にて江守(えもり)より押寄(おしよせ)て、
黒龍(くづれの)明神の前にて相戦ふ。

行実(ゆきざね)の軍(いくさ)利(り)あらずして、又本陣へ引返(ひつかへ)さる。
二番に船田長門(ふなたながとの)守(かみ)政経(まさつね)、七百(しちひやく)余騎(よき)にて安居(はこ)の渡(わたし)より押寄(おしよせ)て、兵半(なかば)河を渡る時、細河(ほそかは)出羽(ではの)守(かみ)二百(にひやく)余騎(よき)にて河向(かはむかひ)に馳合(はせあは)せ、高岸(たかぎし)の上に相支(ささへ)て、散々(さんざん)に射させける間、漲(みなぎ)る浪にをぼれて馬人(むまひと)若干(そくばく)討(うた)れにければ、是(これ)も又差(さし)たる合戦も無(なく)して引返(ひつかへ)す。

三番に細屋(ほそや)右馬助(うまのすけ)、千(せん)余騎(よき)にて河合(かはひ)の庄より押寄(おしよせ)、北(きた)の端(はし)なる勝虎城(しようとらがじやう)を取巻(とりまい)て、即時(そくじ)に攻(せめ)落さんと、屏(へい)につき堀につかりて攻(せめ)ける処へ、鹿草(かぐさ)兵庫(ひやうごの)助(すけ)三百(さんびやく)余騎(よき)にて後攻(ごづめ)にまはり、大勢の中へ懸入(かけいつ)て面(おもて)も振らず攻(せめ)戦ふ。

細屋が勢、城中(じやうちゆう)の敵と後攻(ごづめ)の敵とに追立(おつたて)られて本陣へ引返(ひつかへ)す。
角(かく)て早(はや)寄手(よせて)足羽(あすは)の合戦に、打負(うちまく)る事三箇度(さんがど)に及(およべ)り。
此(この)三人(さんにん)の大将は、皆天下(てんが)の人傑(じんけつ)、武略の名将たりしかども、余(あまり)に敵を侮(あなどつ)て、■(おぎろ)に大早(おほはや)りなりし故(ゆゑ)に、毎度の軍(いくさ)に負(まけ)にけり。
されば、後漢(ごかん)の光武(くわうぶ)、々(ぶ)に臨む毎(ごと)に、「大敵を見ては欺(あざむ)き、小敵を見ては恐(おそれ)よ。」と云(いひ)けるも、理(ことわり)なりと覚(おぼえ)たり。

(太平記 巻第二十)


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今昔物語 巻第二十六 第十七

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黒龍神社、現神主の先祖、藤原利行の父、藤原利仁が今昔物語に出てくるエピソード 。
 宇治拾遺物語に同じ題材の話が出ている。
芥川龍之介はこの話を題材に小説『芋粥』を執筆している。
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今昔物語 巻第二十六 第十七
利仁将軍若時従京敦賀将行五位語 第十七
としひとのしょうぐんわかきとききょうよりつるがにごいをいてゆくことだいじふひち



今は昔、利仁(としひと)将軍という人がおった。
若いころ、[藤原基経(ふじわらのもとつね)]という時の関白に仕える侍であった。
越前国の[ ]有仁(ありひと)という裕福な豪族の婿でもあったから、つねにその国に出かけていっていた。

ある年、主人の屋敷で正月の大饗(だいきょう)が行われた。
当時は大饗が終ったあと、取食(とりばみ)といわれる乞食は追い払って中に入れず、大饗のお下がりはこの屋敷の侍どもが食う習わしになっていた。
ところで、この関白家に長年仕えて幅をきかしていた五位の侍がいた。
大饗のお下さがりを侍たちが食っている中にこの五位もいて、その座で芋粥をすすり、舌鼓を打って、
「ああ、なんとかして腹いっぱい芋粥がたべたいものよ」と言う。
利仁がこれを聞き、
「大夫殿よ。まだ腹いっぱい芋粥をお上がりになったことはないのですか」と言うと、五位は、
「まだ思いきり食べたことはないのですわ」と答えた。そこで利仁が、
「それなら十分に召し上がっていただきたいものだ」と言うと、五位は、
「そう願えれば、どんなにかうれしいことでござろう」と言って、その日はそのままに終わった。

その後、四、五日ほどして、この五位は、屋敷内に自分の部屋をもらっていたので、そこに利仁がやってきて、五位に向かい、
「さあまいりましょう大夫殿、東山の近くに湯を沸かしてある所がありますから」と言う。
五位は、「それはまことにうれしい。昨夜は、どうも体がかゆくて、よう寝つかれもしませんでしたよ。だが、あいにくと乗り物が」と言いかけると、
利仁が、「いや馬ならここにあります」と言う。
「それはありがたい」と言った五位の、その姿を見ると、薄い綿入れ二枚ほど重ね、裾の破れた青鈍色(あおにびいろ)の指貫(さしぬき)に、同じ色の狩衣(かりぎぬ)の肩の折目の少しくずれたものを着て、下の袴はつけず、高い鼻のその鼻先は赤らみ、穴のまわりがひどく濡れているのは、「鼻水をろくにぬぐいのしないのか」と思われる。
狩衣の後ろは帯に引っ張られてゆがんでいるが、それを直そうともしないのか、ゆがんだままなので、おかしい格好だが、その五位を先に立て、ともに馬に乗って加茂川原さして出かける。
五位の供には卑しい小童(こわらわ)さえいない。
利仁も供には武具持ちの者一人と舎人男(とねりおとこ)一人だけ引き連れた。

さて、川原を過ぎ粟田口(あわたぐち)にさしかかると、五位が、「その場所はどこですか」と言う。
利仁は、「すぐそこです」と言ったが、いつしか山科(やましな)も過ぎた。
五位は、「すぐだとのことだが、山科も過ぎましたよ」と言うと、「いや、すぐそこですよ」と言いつつ関山(せきやま)も過ぎ、三井寺の知人の僧の坊に行ついた。
五位は、「さてはここで湯を沸かしたのか」と思い、「それにしてもひどく遠くに来たものだ」と思っていると、坊主の僧が出てきて、「これは思いがけぬおいでで」と言って、接待に走り回る。

だが、湯はありそうにも見えない。五位が、「どうしたのですか、湯は」と尋ねると、利仁は、「じつは敦賀(つるが)におつれするのです」と言った。
これを聞いた五位が、「なんとも常規を逸したお方だ。京でそうおっしゃっていたら、下人なども連れてこようものを、まるっきり供も連れず、そんな遠い道をなんでいけるものですかね。怖しいこと」と言うと、
利仁はおもしろそうに笑って、「なに、わたしがおりますからには千人とお思いくだされ」と言ったが、まさに道理至極である。
こおして食事を終え、急いで出発した。利仁はここで初めて胡録(やなぐい)を取り、背に負った。

さて行くうちに、三津(みつ)の浜のあたりで狐が一匹走り出た。
利仁はこれを見て、「よい使いがはしってきたぞ」と言って狐めがけて襲いかかると、
狐は命からがら逃げだしたが、しゃにむに追いかけられ、逃げきれなかったところを、利仁は馬の横腹に身を落し、狐の後ろ足をつかんで引き上げた。
乗った馬はさほどすぐれものとも見えないが、じつはすばらしい駿馬(しゅんめ)であったので、そう遠くも追わず追いついたのだ。
五位が狐の捕えられた所に馳せついて見ると、利仁は狐を引っ下げて、
「おい狐、今夜中に、わしの敦賀の家に行ってこう言え。『急にお客様をお連れして下ることになった。明日の巳の時(午前十時ごろ)、高島のあたりに馬二頭に鞍を置いて、男どもが迎へにくるように』とな。もしこれを言わぬものなら、わかっているな。狐よすぐやってみろ。狐は変化のものだから、必ず今日中に行き着いて言え」と言って放つ。
五位が、「これはまた当てにならない御使者ですな」と言うと、利仁は、「見ていてごらんなされ、行かぬはずはありませんよ」と言ったが、それと同時に、狐は本当に振り返り振り返り先に走っていく。
見る見るうちに姿が見えなくなった。

さて、その夜は道中一泊した。翌朝早く出立して先を急いでいると、本当に巳の時ごろ、二、三十町ほど先を一団となってやってくる者がある。
「なんだろうか」と見ていると、利仁が、「昨日の狐が向こうに着いて告げたのです。それで男どもがやってきたのです」と言ったが、五位は、「さて、どんなものですかな」と言っているうちに、みるみる近づいてきて、ばらばらと馬から飛び降りると同時に、「それ見よ。本当においでなされたではないか」と言う。
利仁は微笑んで、「どうした」ときくと、中で主だった朗等(ろうどう)が前に進み寄ったので、それに、「馬はあるか」ときく。「二頭おります」と答え、ほかに食物などととのえて持参したので、馬を降りてそのあたりにすわり食事をした。

その折、さきの主だった朗等が、「じつは昨夜、不思議なことがございました」と言う。
利仁が、「どういうことか」と尋ねると、郎等は、
「昨夜、戌の時ごろ(午後八時ごろ)奥様がにわかに胸に非常な痛みを覚えられましたので、『どうしたことか』と思っておりますと、ご自身で『わたしは、ほかでもございませんが、今日の昼、三津の浜で利仁様が急に京より下ってこられたのにお会いいたしましたので、逃げ出しましたが、どうにも逃げおおせず、つかまってしまいました。その時、利仁様が、『お前は今日中にわしの家に行き着き、「おれはお客人をお連れして急に下ることになったが、明日の巳の時、馬二頭に鞍を置いて、男どもが高島のあたりまで迎えにくるように」とこう言え。もし今日中に行きついて言わなかったなら、ひどい目にあわせるぞ』と仰せられました。ですから、御家来衆、すぐに出かけてください。遅くなっては、わたしがお叱りを受けることでしょう』と言っておびえ騒がれましたが、大殿が、『なに、たやすいことだ』と言われ、男どもを召してお命じになるや、たちどころに正気にもどられました。その後、夜明けの鶏の声と同時にわれわれは、出てきたのでございます」と言った。
利仁はこれを聞いてにっこり笑い、五位に目くばせすると、五位はあきれる思いで聞いていた。

さて食事が終わって、急いで立っていったが、日の暮れ方に家に着いた。
「それ見ろ。本当だった」と、家じゅうの者が大騒ぎをして迎える。
五位は馬から降りて家の様子を見ると、いいようもないほど裕福である。
初め着ていた二枚の着物の上に利仁の夜着まで着たが、腹もへっていてひどく寒そうな様子なので、火鉢にたくさん火を[おこし]て、畳を厚く敷き、その上に果物や菓子を並べたが、じつに豪勢である。
「道中、お寒かったでしょう」と言って、練色の着物に綿の厚く入ったのを三枚重ねてかけてくれたので、なんともいえずいい気分になった。

やがて食事が終わり、あたりが静かになってから、舅の有仁がやってきて、利仁に
「いったいどういうことで、このようにだしぬけにお下りになり、あのようなお使いをいただいたのか。どうも常規を逸してますな。あなたの奥方がにわかに発病され、まことにお気の毒なことでしたよ」と言うと、利仁は笑って、
「どうするか試してみようと存じて申したのですが、本当にやってきて告げたのですね」と言う。
舅も笑いながら、「驚き入ったことです」と言って、
「いったいお連れになった方とは、ここにおいでの方のことですか」と尋ねる。
「さようです。『芋粥をまだ腹いっぱいあがったことがない』と仰せられるので、十二分にあがっていただこうと思い、お連れ申したのです」と利仁が言うと、舅は、
「それはまたぞうさもないものに満足なさらなかったことですね」とたわむれ言を言うと、五位は、
「いや、この方が東山に湯を沸かしてあると、わたしをだまして連れ出し、こんなことをおっしゃるのですよ」などと言い、互いに冗談ごとを言い合っているうち、少し夜が更けたので、舅は自分の部屋に帰っていった。

五位も寝所とおぼしき所に入って寝ようとすると、そこに綿の厚さ四、五寸(約十二から十五センチ)もある直垂(ひたたれ)が置いてあった。
もと着ていた薄い着物は着心地が悪く、また何がいるのか、かゆいところも出てきたので、みな脱ぎ捨て、練色の着物三枚重ねた上にこの直垂を引きおおって横になった気持ちといったら、いまだ経験したこともないほどで、汗びっしょりになって寝ていると、そばに人の入ってくる気配がした。
「だれだ」ときくと、女の声で、「『おみ足をあさすり申せ』と言われましたので、まいりました」と言う様子がなかなかかわいいので、抱き寄せて、風が入ってくる所に寝かせた。

やがて、「騒がしい声が聞こえるがなんだろう」と思って聞いていると、男の叫び声がして、
「この近くの下人どもよく聞け。明朝卯の時(午前六時ごろ)に、切り口三寸、長さ五尺の山芋をめいめい一本ずつ持ってこい」と言っているようだ。
「あらいことを言うものだ」と思いながら眠ってしまった。
さて、まだ夜明けのころに、庭に莚(むしろ)を敷く音が聞こえた。
「何をしているのだろう」と聞いていたが、夜が明けて蔀戸(しとみど)を開けた時、見ると、長莚が四、五枚敷いてある。
「何に使うのか」と思っていると、下人が木の様なものを一本その上に置ていった。
そのあと次々に持ってきては置いていったのを見れば、本当に切り口三、四寸、長さ五、六尺ほどもある山芋であった。
それを巳の時まで次々と置いていったので、自分のいる寝所の軒丈ほどに積み上げた。
昨夜叫んだのは、実はそのあたりに住むすべての下人に命令を伝達する人呼びの丘という丘の上で叫んだのであった。
その声の届く範囲の下人どもが持ってきたのでさえ、こんなに多い。
まして、遠く離れた所にいる従者はどれほど多いか、思いやられる。

「いやはや、驚いたことだ」と見ていると、一石(約百八十リットル)入りの釜を五つ六つほど担いできて、急いで何本も杭を打ち、その釜をずらりとすえ並べた。
「何をするのか」と見ているうち、白い布の襖(あお)というものを着て、腰の辺りに帯紐を締めた、若くこぎれいな下女どもが、白く新しい桶に水を入れて持ってきて、これらの釜に入れる。
「何の湯を沸かすのだろう」と見ていると、この水と見えたのはあまずらの汁であった。
また、若い男どもが十人余り出てきて、袖をたくし上げ、長く薄い刀でこの山芋の皮を削ってはなで切りに切る。
いわずと知れた、芋粥を煮るのだ。これを見ると、もはや食べる気もせず、かえってげんなりしてしまった。
ぐつぐつと煮返して、「芋粥ができ上がったよ」と言うと、「ではさしあげよ」と言って、大きな土器で、銀の提(ひさげ)の一斗(約十八リットル)ほど入るものに三、四杯くみ入れて持ってくる。
一杯さえも食べられず、「もう腹いっぱいです」と言うと、みんなどっと笑い、その場に集まりすわって、「お客様のおかげで、芋粥が食べられるぞ」など口々に冗談を言い合った。

その時、向いの家の軒に狐がのぞいているのを利仁が見つけ、
「ごらんなさい。昨日の狐が会いたがっていますよ」と言い、
下人に「あれに何か食い物をやれ」と命じたので、食わせると、それを食って行ってしまった。

このようにして五位は一月ほど滞在していたが、なにかにつけて言いようもなく楽しい。
その後、京に上ったが、土産に普段着・晴れ着の衣装を何枚もととのえて渡され、綾・絹・綿などをいくつもの行李(こうり)に入れてもらった。
初めの衣装と夜着などはいうまでもない。
その他、よい馬に鞍を置き、物など添えてくれたので、それらをみなもらい、すっかり物持ちになって上京した。

実際、長年勤め上げて、人々から重んじられている者には、自然とこういうことがあるものだ、とこう語り伝えているということだ。

(今昔物語 巻第二十六 第十七)


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今昔物語 巻第十四 四十五

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黒龍神社、現神主の先祖、藤原利行の父、藤原利仁が今昔物語に出てくるエピソード 。
藤原利仁が新羅国に将軍として出兵しようとしたとき途中山崎で病死した時のエピソード。
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今昔物語 巻第十四 四十五



依調伏法験利仁将軍死語 第四十五
でうぶくのほふのしるしによりてとしひとのしやうぐんしぬることだいしじふご

今は昔、文徳天皇(もんとくてんのう)の御代に、新羅国(しらぎのくに)に仰せ遣わされることがあり、それをこの国が受け入れなかったので、大臣や公卿(くぎょう)の衆議の結果、
「かの国は[  ]天皇の御代に、わが国に服従すると申した。それなのに、このように仰せ遣わすことを受け入れないとあっては将来とも悪かろう。それゆえ、すみやかに軍勢をととのえてかの国を討伐すべきである」と決定され、
当時、鎮守府将軍であった藤原利仁(ふじわらのとしひと)という人を新羅国に派遣した。

利仁は勇敢であり、軍(いくさ)の道に達した者であるので、この仰せを承って後、大いに勇猛心を起して出発したが、多数の剛勇の将士たちを、数えられぬほど多くの船に乗せた。

ところが、かの新羅国ではこのことを知らない。だが、このことのためにさまざまの異変が生じたので、それを占わせると、外国の軍勢が攻め寄せてくるというように占ったので、この国の国王はじめ大臣や公卿は驚き、
「外国から勇猛な軍勢が打ち立ってわが国に攻めてくれば、とうてい手向いして防ぎうるすべもない。それゆえ、ただ三宝(さんぽう)の霊験を深く頼むにこしたことはない」と決定した。

そのころ、大宋国(だいそうこく)に法全阿闇梨(はつせんあじゃり)という方がおられた。
恵果和尚(けいかかしょう)の御弟子(みでし)として真言密教の修法を学び伝えた尊い聖人(しょうにん)であるが、国王は急遽その人を招いて調伏法(ちょうぶくほう)を行わせた。

さて、三井寺(みいでら)の智證大師(ちしょうだいし)は若いころ宋に渡り、この法全阿闇梨を師として真言を学んでおられたが、その大師も師とともに新羅に渡っておいでになった。
だが、阿闇梨が新羅国に招かれたのはわが国調伏のことによってであるとはどうしてご存じになろうか。
ところで、調伏法がすでに七日目の満願になろうとする日、修法の壇上に血がたくさん流れている。
阿闇梨は、「必ずや修法の験(しるし)があったのだ」と言って修法を終え、本国の宋に帰ってしまった。

一方、利仁将軍は出発しようとして山崎で病気になり床に臥(ふ)していたが、にわかに起き上がって走り出し、[  ]に空に向かって太刀を抜き、躍り上がり躍り上がりして、何度も切りつけているうち、倒れて死んでしまった。
そこで、他の人をあらためて派遣することもなく終わった。

その後、智證大師が宋から帰朝され、新羅国に渡った時のことをお語りになったが、それを聞いてわが国の人は、
「なるほど、利仁将軍が死んだのは、その調伏法の験によるものであったのだ」とはじめて合点がいった。
これを思うと、利仁将軍もまったく並々の人ではないと思われる。というのも、そのように空に向かって切りつけたのは、必ずや相手がはっきり目に見えたのであろう。だが、修法の霊験あらたかであったために、即座に死んだのである、とこう語り伝えているということだ。

今昔物語 巻第十四 四十五)




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2008年2月19日火曜日

利仁将軍、粥を食べさせる事  (宇治拾遺物語 十八)

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黒龍神社、現神主の先祖、藤原利行の父、藤原利仁が宇治拾遺物語 に出てくるエピソード 。
今昔物語に同じ題材の話が出ている。

芥川龍之介はこの話を題材に小説『芋粥』を執筆している。
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宇治拾遺物語 十八

利仁将軍、粥を食べさせる事

今より昔、敦賀に住んでいた鎮守府将軍・藤原利仁が若かりし頃、その当時、官職第一位の地位にいる人の下で警備を勤めていたのだが、その主人が正月に大きな新年会が催した。
その当時は宴会が終わると、残飯をあさりに来る者どもを屋敷に近づかせなかったので、残り物は宴会のお下がりとして、屋敷に仕えている者たちが食べていた。

ここに、侍の中で五位という地位にいる者がいた。長年まじめに勤めていて、屋敷に勤める者たちに一目も二目も置かれる存在だった。
この五位、その残飯整理の場で芋粥をすすって、舌うちをして、
「ああ、どうにかして飽きるまで芋粥をすすりたいものじゃ」
そう言ったのを、利仁が聞いて、五位に尋ねた。
「大夫殿(五位のこと)は、いまだに芋粥を飽きるだけ食べた事がないのですか」
「生れてこのかた、食べ飽きた事はないなあ」 
「それでは、飽きさせて差し上げましょう」
「それはかたじけない事です」 と語り合って、その場はお開きとなった。

さて四、五日ほど過ぎて、五位が非番の為、自分の部屋にさがってると、利仁がやって来て、
「さあ支度して下さい。お風呂に参りましょう、大夫殿」 そう誘うと、
「それは名案ですな、ちょうどあちこちが痒く感じていたところです。
しかし乗物は用意してませんが…」 
「ここに粗末な馬が用意してございます」 
「ああ、有難い有難い」 と言って外に出て来た。 
その姿は、薄い綿入りの絹の着物を二つほど重ねて着て、薄汚れた青色をした裾の破れた奴袴を直接はき、肩の折り目が少しくずれた、袴と同色の狩衣を羽織っていた。
顔だちは鼻高かなのだが、鼻先が赤くなっており、水ばなを拭わぬ為なのか、鼻の下がぬるぬるとぬめって見える。
また、後ろを見れば、狩衣が帯に引っ掛かってひん曲がったままで、整えもしないので大変見苦しい。 利仁は笑いを堪えながら、五位を先頭にして馬にまたがり、賀茂河原の方へ出発した。

五位の供の者は、卑しい召し使いの小僧さえいないのだが、利仁の供には、荷物担ぎ、馬の口取り、雑用夫が一人ずついた。 河原を通り過ぎ、栗田口にさしかかると、
「どこまで行くのですか」 と問えば、だだ、
「もうちょっと、もうちょっと」 と言いながら山科も通り過ぎる。
「これはどういう事ですかな。もうちょっと、もうちょっとと言っておいて山科も過ぎてしまわれたのは」 と言えば、
「あとちょっと、あとちょっと」 と言いながら逢坂の関所も通り過ぎる。
「ここよ、ここよ」 と三井寺の知り合いの僧のところへ入ったので、『ここで湯を沸かしているのか、それにしても気が狂いそうな程、遠かったなあ』と五位は思い返していたのだが、どうやらここにもお風呂はなさそうだ。 
五位はむっとして、言った。
「どこなのです、お風呂は」 
「本当は、敦賀にお連れします」 
「気狂いじみていなさる。京でそうおっしゃってくれたならば、下人なども従えて来ただろうに」 五位が溜め息をつくと、利仁はあざ笑って言う。
「なあに、利仁一人おれば、千人力とお思いなさい」 こうして食事を済ませ、急いで出発した。

その時、利仁は荷物担ぎの男に命じ、矢の道具を取り出させて背負った。 
しばらく行くと、びわ湖畔の三津浜で、利仁が一匹の狐が走り出て来たのを見つけて、
「良い使者が出てきた」 として、狐を追いかけ始めた。
狐は全力で素早く逃げるのだが、追い詰められて逃げ切れない。
馬から半身を乗り出して、落ちかかるようにして、狐の後ろ足を捕まえて馬上に引き上げた。
乗っていた馬は、毛並みは決して良くはないが、りっはな駿馬であったから、いくらもたたないうちに狐を捕まえる事が出来たのだ。
やっとの事で五位が追いついてきた時、利仁が狐を持ち上げて言う。
「おい、こら狐、今夜の内に利仁の家へ行き、『私は客人を連れて帰る。明日の巳の刻(午前十時)に、びわ湖畔の高島あたりに従者どもを迎えに来させよ。馬二頭に鞍を乗せ引っ張ってこい』と伝えろ。
もし言わなかった時は、どうなるか分かっているな。狐よ一つやってみよ。狐は神通力を持つものだから、今日の内に行き着いて言え」 と言って放してやったのを、
「頼りない使者だな」 五位が呆れて言うと、
「それなら、見てなさい。行かない事はまず無いでしょう」 と言ううちに、狐はすでにかなり先の方でこちらを振り返り振り返りしながら駆けていた。
「どうやら行く気になったようだ」 と利仁が呟いた時、もう狐の姿は無かった。

こうして、その夜は野宿となり、翌朝早くに出発した。
するとどうだろう、まさに巳の刻ごろに、馬に乗った者たちが三十騎ほど一団を作って前からやって来た。「なんだろう」 と見ていると、利仁が勝ち誇ったように言った。
「従者どもがやって来た」 
「意外な事だな」  五位が驚いていると、騎馬団はどんどん近づいてきて、ばらばらと馬から降りると、「それ見よ、本当にいらっしゃったわ」 と従者の一人が言った。

「どうかしたのか」 そう利仁が微笑みながら尋ねた。
従者を率いてきた家来が進み出て利仁に語りかける。
「昨夜、奇妙な事がありまして……」 「それより、まず馬は余分にいるか」  
従者を率いてきた家来を制して利仁がそう聞くと、「二頭ございます」 と答えた。

食べ物などを従者達が用意してきたので、利仁達も馬から降り、食事を始めると、従者を率いてきた家来が昨夜起こった出来事を話しはじめた。
「昨夜、奇妙な事件がありました。
戌の刻(午後八時)頃に奥方様の胸がきりきりと痛みだされまして、
『どうなさったのだろう』とか『祈祷師を呼ぼう』などと騒いでいると、
奥方様自らが、『何をそんなに騒いでおられる。私は狐である。他でもない、この五日、三津浜でここの殿様がお下りになる時、見つけられて逃げたが逃げ切れず、捕らえられてしまったところ、「今日の内にわしの家に着いて、客人を連れて行くので、あす巳刻に、蔵を付けた馬二頭を、従者どもに高島の浜に運ばせよと言え。もし、今日中に行き着かなかったなら、酷い目に合わせるぞ」と命令されたのだ。
従者ども、お願いだから早く早く行ってくれ。遅れれば遅れるほど、私はお叱りを受けるだろう』と、恐れ騒がれたので、従者達を呼び集め命ずると、奥方様は正気に戻られました。
その後、鶏の鳴き声と共にやって参った次第です」 語り終わると、利仁はうち笑い、五位と顔を見合わせると、五位は驚きの表情を隠し切れないでいた。

食事を済ませ、急ぎ出発して、薄暗くなった頃やっと目的地に到着した。
「それ見よ、まことだったぞ」 と出迎えた家臣一同、驚き合っていた。 
五位は馬から降りて、家の様子を見たところ、富み栄えている事、この上なかった。 
もともと着ていた着物二枚の上に利仁の夜着を貸して貰ったのだけれども、空腹も重なり、五位は大変肌寒く感じていた。 
だが、中に入ると、長いいろりに火がたくさん起こしてあり、筵が重ねて敷かれていて、酒のつまみや料理も用意されていて、豪華だなと思っているところへ、「道中、お寒かったでしょう」 と言って、従者の一人が綿で分厚くなった淡黄色の着物を、三枚重ねて持ってきて、五位の上にかけてくれたので、言い尽くせないほど幸せな気分になった。

食事をして、一段落した時に、利仁の舅・有仁がやって来て、利仁に向かって言う。
「これはいったい何があって、このように戻ってこられたのですか。帰る事の知らせは、とんでもない方法だし、娘は、にわかに苦しみ出す。不思議な事ばかりだ」 
利仁は、うち笑って、「狐の心をためして見ようと思ってした事ですが、本当にやって来て、告げたようですね」 「まったく不思議な事だ」 舅も笑った。
そして、「お連れなさった方とは、ここにいらっしゃる殿方の事ですか」
「さようでございます。『芋粥をまだ飽きるほど食べたことがない』とおっしゃるので、存分に御馳走しようと、お連れしたのです」 
「それはまた、たやすい物にも、満足されてないのですねえ」 と軽口をたたくので、
五位も、「東山に湯を沸かしているといって、人をだまして連れ出して、こんな事を言うのですから」 と言い返した。

やがて夜が少し更けたので、舅は自分の部屋に戻って行った。 
五位は、寝室と思われるところに案内されて寝ようとすると、綿が四、五寸程(十二から十五センチぐらい)もある厚い布団が敷かれている。 
もともと自分が着ていた薄い綿入りの着物はむさ苦しく、それに何かいるのか痒い所も出てくる着物なので、それ脱いで淡黄色の着物三枚を着直して、その上にこの布団を被って寝た。
が、今まで一度も経験したことがないので、のぽせ上がってしまい、汗をびっしょりかきながら寝ていると、障子の向うで人が動く気配かするので、「誰だ」 と問えば、「『足をおさすりせよ』とのお言い付けにより、参りました」 と言う。
気配には、特に殺気は感じられなかったので、その者に足を掻かせて、風通しの良い所に移って横になった。 

気持ち良く横になっている時、突然大きな声がしたので『何の騒ぎだろう』と思って耳を澄ませていると、従者の一人が次のような事を叫んでいるようだった。
「この辺りの下僕どもよく聞け、明日の卯刻(午前六時)に切口三寸(約10cm程)、長さ五尺(約1.5m)の芋を各自一本ずつ持ってこい」 
五位は『驚くほど大げさな事をいうのだなあ』と思いながら眠りについた。

明け方になって、耳を済ますと、庭に筵を敷く音がするので、『何をするのだろうか』と雨戸を開いて覗くと、小屋当番を始めとして、みんな起き出していて、長い筵を四、五枚敷いている。『何の為のものだろう』と見ていれば、一人の下僕が棒のような物を一本、肩に担いで現れて、筵の上に置いて去った。 

その後に続いてまた一人、また一人と一本づつ置いて行く物をよく見ると、本当に直径三寸程の芋で、長さも五、六尺ぐらいのものばかりである。 一本ずつなのだが、巳刻(午前十時)までかかって、最後の下僕が芋を置き終わる頃には、五位がいる家の屋根と同じ高さほどまで積み上っていた。

昨夜の叫び声は多くの下僕に命令を伝える為に、人呼びの丘という塚の上から発せられたものだった。そのため声の聞こえる範囲の下僕がすべてが持ってくるので、このように芋の山ができてしまった。
この上に、まだ遠くにも下僕が多くいるのである。『凄い』と感心していると、今度は、五石(米約700kg)入る釜を五つ六つ担いで持ってきて、庭に杭を打ち込んで固定してずらりと並べた。
『何に使うのか』と思っていると、白い絹で出来た襖という着物を着て帯を締めた、若くこぎれいな女達が、白く新しい桶に水を汲んで来て、釜にざばざばと入れる。
『何だ、お風呂でも沸かすのか』と見ていると、実は、この水に見えた物はだし汁だった。
若い従者たちが十人ほど、着物の袂より手を出して、鋭利な包丁で芋をむきながら、薄切りにして釜に入れていくので、やっと芋粥になることが分かったのだが、食欲も失せてしまい、かえって、見たくも無くなった。 
ぐつぐつと煮えたぎらせて、「芋粥が出来上がりました」 従者の一人が利仁に言う。
利仁、「差し上げなさい」 と命ずると、まず、大きなどんぶりを持ち出し、そこに一斗(約18リットル)ぐらい入りそうな金の銚子から、三、四割、芋粥を取り分けて、「どうぞ」 と持って来たが、五位は見飽きてしまい一口も食べれそうに無くて、「もう飽きました」 と言うので、大笑いした後、集っていた人達が芋粥を片付けにかかった。

「客人殿のおかげで芋粥が食えた」 とそこに集まって来ていた人が口々に言った。
そうこうしていると、向かいの長屋の軒下から、狐が覗いているのを利仁が見つけ、「あれを御覧なさい。昨日の狐がやって来ている……。そうだ、彼にも芋粥を食べさせてやれ」 と命じて、食べさせると、あっという間にぺろりと平らげてしまった。

このようにすべてにおいて、豪華という言葉では語り尽くせない。 一か月程して、京に戻ってきた時、五位は何着もの着物を数重ね、それに高価な八丈絹・わたなどを革の鞄に土産として貰っていた。
初日の夜の布団なども言うまでもなく、その荷物を運ぶ鞍付きの馬までも貰って帰って来た。

貧乏だとしても、長年その地位を守って一目も二目も置かれるようになれば、そういう優遇してくれる者が向うからやって来るものである。

(宇治拾遺物語 十八)


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生江の世常 (今昔物語 [巻第17-47])

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神社記録によると、承平三年[933]生江の世常(いくえのよつね)が夢で神さまからのお告げがあり、黒龍神社(当時まだ舟橋)の社殿をつくりかえた。

生江の世常は、今昔物語[巻17-47]や宇治拾遺物語[巻15-7]に話が載っている。
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今昔物語 巻第17-47

生江の世常

むかしの越前の国に生江(いくえ)の世常(よつね)という者があった。
加賀のじょうという官職であった。初めは、家が貧しくて、物を食べることさえむつかしかったが、吉祥(きちじょう)天女にねんごろに仕えたので、後には富人になり、財室に満ち飽きた。

初め貧しいとき何日も食わず腹がへって、
「たのみ奉る吉祥天女よ、助けたまえ。」と念じたところ、
人があって「門にきわめて端正な女人がいて、主人に用があるといっている。」と告げた。
世経は「誰であろう。」と思って出て見れば、まことに美麗な女人が、かわらけにいい(飯)を一盛り持って、「これを食え。」といってくれた。
世経は喜んで、少し食べると、飽き満ちて、二三日たっても飢えの心がすこしもない。

しかし少しずつ食べているうちに、いい(飯)もなくなってしまったので、また先のように吉祥天女を念ずると、人があって、「主人に用があるという女人が門にいる。」と告げた。
喜びあわてて出てみると、先の女人がいて、「おまえをいとおしと思うが、どうしたらよいだろうか。今度は下文(くだしぶみ)を与えよう。」といって、文をたまわった。

世経が開いてみると「米(よね)三斗」と書いてある。
「これをどこへ行ってもらいますか。」というと、「これより北に峰を越えて行けば、中に高い峰がある。その峰の上に登って修陀(しゆだ)、修陀と呼ばると、出てくる者があろう。その者にあってもらい受けよ。」とのことであった。

教えのごとく行ってみると、まこと高い峰がある。その峰の上に立って「修陀、修陀。」と呼ばれば、高く恐ろしげな声で答えて出て来た者がある。
見れば額に角が一つはえ、目が一つで、赤いふんどしをした鬼である。鬼は世経の前にひざまっいた。

恐ろしいのをがまんして、「ここに下文がある。この米をくれよ。」というと、鬼は、下文を見て「ここに三斗と書いてあるが、一斗をあげよう。」と、袋に米一斗をいれてくれた。

その後、この米を取って使うと、また袋に米が自然と満ちて、取っても取っても尽きない。千万石取っても袋に一斗の米はなくならなかった。

国守がそのことを聞いて、世経を召し寄せ、「その袋を売ってくれ。」といった。
国の中にいる者として国守のおおせを断わりがたく、袋を国守に渡した。
国守は喜んで、その価として米百石を世経に与えた。
国守が一斗取り出して使っても、また同じように出て来て尽きないので「この上もない宝をもうけた。」と思い、持っていたが、百石取り終わったら、一斗の米が尽きて、出て来ないようになった。
国守は、本意と違って残念に思ったが、仕方なく世経に返した。

世経がこれを家に置いたところ、また前のように米が出て、いくら使っても尽きないので、限りない富人となり、もろもろの財産に飽き満ちた。

(今昔物語 [巻第17-47])


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黒龍神社 年表 (二)

一四五八  三十六代 山本左京亮藤原行頼 後花園院御宇 越前国黒丸城主 朝倉弾正左エ門尉敏景に随従し
        長禄二年寅十一月より同三年己丣五月十三日迄敦賀郡合戦

一四七一  文明三年五月廾一日 
        将軍慈照院殿感 朝倉俊景の勲功越前一国の守護被申付始て一乗谷築城の際 敏景より
        藤原行頼に築城普請立会奉行を被命且亦度々戦功為賞召領字渓荒馬壱頭大身
        鎗壱筋禄戴百石を給ふ鎗今取持す依て

一四七二  山本左京亮藤原行頼 文明四年壬辰年八月
        神職を男民部亟 三十七代藤原行義に譲り一乗谷に住む

一六〇一  讃岐頭 四十六代藤原行興 慶長六年
        中納言秀康公入国に付慶長八年[1603]富黒龍宮は北陸道の惣祇四海の鎮守神なるを以 
        格別御信仰あり祈祷所となり先々の通り諸役免許并月々為 供米五斗宛寄付の黒印書を給る

一六〇三  百七代後陽成天皇御代慶長八年正月十日

        越前藩主中納言源秀康公が社地として桜井山(黒龍山)を寄進され御社殿を
        (今の藤島神社本殿位置)造営された。
        人々の崇敬殊に篤く奉祀も鄭重を極め神威日々に輝いた。
        その後、松平家の祈祷所となり関係は深く社紋が葵の紋であることからもうかがえる。

        慶長八年[1603]越前藩主になった結城秀康は、神社の敷地が狭いとの理由で、
        社領として桜井山(黒龍山ともいう)を寄進し社殿を新築した。古図によっても、現在地にほぼ一致する。

一六三四  美作守 四十七代藤原行綱 明正院御宇 寛永十癸酉年九月 京都神楽岡吉田殿配下となる

一六九〇  七代目藩主に再任した松平吉品
(まつだいらよしのり、五代目藩主松平昌親と同一人物)は、
        黒龍神社を足羽山上に移した。
        古地図から推定すると竜ヶ岡あたり 「越前国名蹟考」によれば
       「足羽山つづき上神宮寺山上にあり・・・」と記されている。

一八七一  明治四年十月、黒龍神社は、足羽神社に合併


一八七五  明治八年十二月十日現在の地へ社殿の移築、
再独立 (福井市毛谷三丁目 黒龍山)
        敦賀県において社格郷社に列せらる。

一八八二  明治十五年十一月 足羽神社から馬来田通義彦が
毛矢黒龍神社社家山本家の養継子となり
        以後山本通義と名乗り六十代社家を継いだ。

一九〇〇  明治三三年四月一八日夜、福井市僑南大火の際、
社殿類焼し氏子も大半烏有に帰す。

一九〇五  明治三八年五月一八日 社殿を再建する。
一九〇九  明治四二年三月 神饌幣帛 供進の神社に指定される。

     現在の御本殿は昭和三年[1928]、

     拝殿は同六年[1931]、渡殿が同十年[1935]に再建された。

       (終)



黒龍神社 年表 (一)


四七七   男大迹王(継体天皇)が越前国の日野、足羽、黒龍の三大河の治水の大工事を行われ、
       北国無双の大河であった黒龍川(九頭龍)の守護と国家鎮護産業興隆を祈願され
       高龗大神(黒龍大神)、闇龗大神(白龍大神)の御二柱の御霊を高尾郷黒龍村毛谷の杜
       (現在の舟橋から6.5粁上流の川の中央に位置)に創祀された。

..............    この後、毛谷の杜より舟橋に社殿が移築された。

七〇八  高志連村君(こしのむらじ・むらぎみ)が四十三代
元明天皇御代和銅元甲年九月二十日
      継体天皇の御遺徳を景仰し御霊を合祀された。

七八四  延暦三年八月社殿が火災で焼失し坂上苅田麻呂
(さかのうえのかりたまろ、
      坂上田村麻呂の父)が再建したと伝えられる。

九二七  延喜式に越前国坂井郡 毛谷神社[ケタニ]として記載

九三一  藤原利行 朱雀帝御宇承平元年越前国黒龍村、
毛谷神社神職となる。 山本家祖先

..............  利行は、藤原利仁の四男、房前の子孫として生まれ、
祖先は鎌足や魚名までさかのぼる。
..............  利行は、[890頃~920頃]越前国角鹿(現在・敦賀)に
生まれ、同国額田の郷
       好彦の女聘種子妻となし丹生の山本(今立郡山本庄)に住む、これにより山本姓となる。
..............  延喜十二年[912]勅命により父利仁が挙兵、奥賊
下野国高坐山に栖む蔵安蔵宗の
       二賊を討つ (『鞍馬蓋寺縁起』) 官軍に従い戦い重傷を負い越前に帰国。その後、
       毛谷神社神職となる。


..............  .利行の父、藤原利仁(ふじわらのとしひと、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。
..............  911年(延喜11年)上野介となる。以後上総介・武蔵守など
坂東の国司を歴任し、
      この間915年(延喜15年)に鎮守府将軍に任じられるなど平安時代の代表的な武人として
      伝説化され、多くの説話が残されている。
.............  『今昔物語集』(巻第二十六の十七)の中にある、
五位の者に芋粥を食べさせようと
      京都から敦賀の舘へ連れ帰った話は有名である(芥川龍之介はこの話を題材に
      小説『芋粥』を執筆している)

九三三  承平三年 生江の世常(いくえのよつね)が夢で神さまからの
お告げがあり、社殿をつくりかえた。

.............  生江の世常は、今昔物語[巻17-47]や
宇治拾遺物語[巻15-7]に話が載っている。

一〇三四  長元七年八月、坂井郡の二面長者
(ふたおもてのちょうじゃ)が海で暴風にあい、
       毛谷神社に祈ったところ、危うく難を免れたので、お礼のため神田を寄進して社殿を改修した。

一〇五九  後冷泉院御宇康平二年 北陸道七箇国押領使 
疋田越前守為頼 毛谷神社信仰仰有て
       社殿造営あり為神膳料正蓮花村田五町被供 神職行将を為頼の侍従に被召出 
       神勤は舎弟藤原行良に譲る

一三二九  九十六代後醍醐天皇御代元徳元年十二月
神託により越前守参議藤原国房公
        斉屋清水(今の百坂)の上に御社殿を建立され 元鎮座の地名を合わせて「毛谷黒龍神社」と
        尊称し また、元神社名をとり麓一帯は“毛谷の里”と呼ばれ、祭りは数多くの奉賛行事で賑い
        盛儀がおこなわれた。

..................  元徳元年六月一日、
羽倉部祐海(はくらべのすけみ)が夢で毛谷神社を 善住山(足羽山)に
        移すよう神のお告げがあった。
        しかし彼は貧しくその財源がなかったので、越前国司藤原国房に陳情した。 同年十二月国房は、
        これを聞き入れ、毛谷神社を足羽山の中腹、 斎屋清水(ゆやのしょず)の上に移築したという。
        いまの百坂の中腹あたりかもしれない。

一三三八  二十四代藤原行古 光明院御宇暦応元年五月二日
左中将義貞に従軍し藤島の里に戦死
        暦応元年五月、新田義貞が斯波高経と戦ったとき、 黒龍神社も兵火にかかり燃える

..................  このとき神霊は、白龍となって山上に飛び、木の上にとまった。
.................  そこで、このあたりを竜ヶ岡(たつがおか)と呼ぶようになった。
.................  いまの三段広場の少し下、山本条太郎像が建っているあたり。

.................       「太平記」巻第二十に黒龍明神下での戦いが記載あり

一三四四   新田義貞が戦死し、斯波高経が越前を支配したため、高経は康永三年神社の仮社殿をつくった。

(黒龍神社 年表 (二) につづく)




黒龍神社 由緒書

毛谷黒龍神社

鎮座地    福井市毛谷三丁目 黒龍山
御祭神    高龗大神 (たかおがみのおおかみ)
        闇龗大神 (くらおがみのおおかみ)
        男大迹天皇 (おほどのすめらみこと)
由緒  
毛谷黒龍神社の創建は「毛谷神社」と称し二十一代雄略天皇の御代[477年]男大迹王が越前国の日野、足羽、黒龍の三大河の治水の大工事を行われ、北国無双の大河であった黒龍川(九頭龍)の守護と国家鎮護産業興隆を祈願され 高龗大神、闇龗大神の御二柱の御霊を高尾(たかや)郷黒龍村毛谷の杜(もり)(現在の舟橋から6.5粁上流の川の中央に位置)に創祀された。この後毛谷の杜より舟橋に社殿が移築された。

 四十三代元明天皇御代和銅元甲年[708年]九月二十日継体天皇の御遺徳を景仰し御霊を合祀された。

九十六代後醍醐天皇御代元徳元年[1329年]十二月神託により越前守参議藤原国房公斉屋清水(今の百坂)の上に御社殿を建立され元鎮座の地名を合わせて「毛谷黒龍神社」と尊称し また、元神社名をとり麓一帯は“毛谷の里”と呼ばれ、祭りは数多くの奉賛行事で賑い盛儀がおこなわれた。

 百七代後陽成天皇御代慶長八年[1603年]正月十日越前藩主中納言源秀康公が社地として桜井山(黒龍山)を寄進され御社殿を(今の藤島神社本殿位置)造営された。人々の崇敬殊に篤く奉祀も鄭重を極め神威日々に輝いた。

 この後明治八年十二月十日現在の地へ社殿の移築がおこなわれ、現在の御本殿は昭和三年、拝殿は同六年、渡殿が同十年に再建された。

 越前最古の歴史と諸社のもまれな社格誉れ高い毛谷黒龍神社は昭和五十二年[1977年]に御創立千五百年を迎えた。

相殿神     西宮恵比寿神社
         事代主大神
         大市姫大神
         聖徳太子
         受持神社御分霊(二十一社)

境内神社   西宮恵比寿神社(現在御殿内同座)
          石渡八幡神社
          白山神社(白山堂)

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黒龍大明神

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黒龍大明神の由来や言い伝え
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天地のはじめのとき、国土守護の神として四方の国に四柱のかみがいた。
東は常陸(ひたち、茨城県)の鹿島(かしま)大明神、
南は紀伊(きい、和歌山県)の熊野(くまの)大明神、
西は安芸(あき、広島県)の厳島(いつくしま)大明神、
北はわが越前の黒竜(くずりゅう)大明神である。
この四神が日本の四隅を守護した。

承平(935)のころ生江(いくえ)の長者世常(よつね)の宿禰(すくね)という者が霊夢を受け、社殿を建てた。それ以来毎年七度の祭礼をかかさない。

(越前国絵図記)


黒竜(くずりゅう)大明神はひじょうに古い。
いつのころからあがめているのかわからない。
承平年中伊良縁(いらえ)の世恒(よつね)の宿禰(すくね)という長者があって社殿を建てた。
延喜式にある坂井郡毛谷(けや)の神社とは黒竜宮のことである。
今のこの社のふもとを毛谷(毛矢)というのはそのためである。

(帰雁記)


暦応元年(一三三八)兵火によって社殿が焼けたが、神霊は、飛んで裏山(天魔ヶ池のある所)の樹上にとどまった。よって今その地を竜ヶ岡という。

(福井県神社誌)


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継体天皇 (朝倉始末記から)

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継体天皇の言い伝えと、三国の由来
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朝倉義景が雄島へ参拝するとき、三国の港を通ったので、問丸(といまる・商品問屋)の者どもまかり出てお礼を申したところ、旧儀を聞き覚えたことがあれば、何なりと申せといわれた。
そこで中でも老年の者が進み出て、次のように語った。

昔この越前中の郡(なかのこおり)は、漫々たる湖水であったのを、人皇二十七代継体天皇が、まだおおとの王のとき、味間野の皇子と号し、当国の守護としておおとべに(大迹部)おられたおり、
海と湖水の境を掘り切れという天皇の宣言により、この港の箇所を切り落としところ、ちょうしの口から水を下すごとく水が流れ出たので、その場所をちょうしぐち(銚子口)といい、今に至っている。

水が落ちて後港となり、てんじく(インド)しんたん(中国)わが朝(ちょう)にも並ぶもののない港であるというので、三国(みくに)の港と名付けられた。
湖水の跡はことごとく田畑となり、国中過分に広がり、くわ・あさが多く出き、大上上国となって、万民富福になった。

武烈天皇のなきあと、おおとべ王を太子に立て、やがて即位して継体天皇となった。
天皇が死なれて後、その生まれた国であるので、遺勅により陵を当国に納め、足羽大明神と尊敬し奉る。今の木田山の社がこれである。
しかし千年以上も前のことであるから、人の語り伝えであって、事の実否はおぼつかない。

(朝倉始末記)


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継体天皇 (越前国古跡拾集記から)

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足羽大明神の由来
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継体天皇がなくなられた後、お子安閑天皇が、父帝の在住の地であったこの山に神霊の御陵を移し、足羽大明神と号して祭った。

継体天皇が水を治め港を開いたとき、湖の上を神変力によって自由に往行し、まるで足に羽がはえているようなので、役丁(よぼろ)たちは足羽(あすわ)の神と申し奉った。
この故に足羽の神と号した。

(越前国古跡拾集記)


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継体天皇 (福井城の今昔から)

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継体天皇の言い伝えと、足羽明神、館町の由来
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館屋(たちや)の加輿丁(かよちょう)の起源は、むかしおおと皇子三才のおり、父を失い、母の振姫(ふりひめ)に伴われて当国坂井郡高向(たかむく)の宮に来られたが、そのときこし(輿)に付き添いしたがった十七人の者が加輿丁である。
あるいは皇子を背負い参らせて当国に来たともいう。

皇子が天皇になられて後は、馬来田(まきた)皇女を足羽明神の斎宮と定め、加輿丁を皇女に附属せしめた。
それ以後は、皇女のこしにお供し、皇女なき後はその陵墓を守った。

また足羽神社のみこしをかつぐのもこの加輿丁の家筋に限り、冬は社殿の雪おろしも彼らの仕事であった。
足羽社に奉仕する神主十八人、禰宜四人、執当役者六人、勾当社人上下十三人、下祝七人計四十八戸および加輿丁十七戸は、足羽山のふもと大将軍の社を中心に居館を構えていた。

これが館屋(たちや)の名義の起源で、中古には立矢と書き、明治七年の町名改正で館(やかた)町と称するようになった。

(福井城の今昔)から


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継体天皇 (矢立明神由来)

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継体天皇の言い伝えと、矢筈の清水、笏谷、矢立大明神の由来
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天王様(おおと皇子のこと)の治水のとき、役夫たちはのどのかわきに悩んだ。
天王は携えていたしゃく(杓)を投げうって水を求めたが、得られなかった。
さらに矢を放ったが、一の矢は山上にとまり、二の矢は中腹にとまった。
三本目は最後の矢なので、天神・地神・天照皇大神宮に祈って、身を投げうって矢を放った。
矢ははるか虚空に上がり、空中から舞い落ちて石山のふもとの岩盤を射通し、その音は大岩石を投げうつようであった。

しかるにその所から清水がわきいで、天王は喜びの涙を流した。
その旧跡を矢筈(やはず)の清水といい、その谷を杓谷(しゃくだに)という。
三本の矢は、諸人の命を助けた神矢なので、神殿を立て矢立(やたて)大明神としてあがめ奉り、社頭を立矢町と名付けた。

また天王が召し連れた十七人の者に社頭の神主を命じ、それぞれに世過ごし(生活)ができるように仕事を下し置かれた。

(矢立明神由来)


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継体天皇 (越前の民話)

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継体天皇の言い伝えと、矢立町、笏谷の由来
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大むかし越前平野は一面に水がみなぎっていた。
これは、悪竜の仕わざである。

男大迹(おおと)の王(継体天皇)は、悪竜を退治し水を治めるために、足羽山に登り、海に向かってかぶら矢を射た。

矢は水の上をぐるぐる回っていたが、やがて海の方へ飛んでいった。
すると矢とともに水が海の方へ退いていった。

矢は三回海まで往復してもどって来ると、地上に落下してつき立った。
その場所が立矢(たちや)町(足羽一丁目)である。

またそのとき王が手にしていたしゃくを捨てた所が笏(しゃく)谷である。
(越前の民話)


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継体天皇 (剣神社盛衰記)

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継体天皇誕生と母親の話
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仁賢天皇の皇后はたぐいまれな美人であった。
右大将武烈がこの皇后に恋慕し,悪だくみを考えた。まず天皇に悪事をすすめて、世の悪評をおこし、ついに天皇を退位させた。
天皇には仁王子と賢王子というふたりの王子があったが、二王子は逃れて行くえ知れずになった。
そこで武烈はみずから天皇に昇進した。

武烈は、仁賢の皇后を自分の皇后にしようとしたが、皇后はいっこう武烈の意に従わない。
武烈は怒って、この君の両足をしゃく(笏)板で大いに打った。そのため皇后の両足は黒くはれ上がり、傷口から黒い羽が生えた。
このいわれで後世この君を足羽(あすわ)の宮という。

皇后は、足がかたわになっても、なお武烈の意に従わなかった。
そのわけは、皇后はすでに仁賢天皇のみ子を身ごもっていたからである。
武烈は、腹をたてて、この君をうつぼ船(丸木船)に乗せ、湖に流した。

皇后は流れて、越の国下の戸の山城という所へ流れ着いた。
この地に炭焼き籐太(とうた)という者が住んでいた。
籐太は船が流れてくるのを見つけ、水に入って押しとどめたところ、世の常ならぬ方が乗っておられた。
籐太は皇后をいたわって、炭焼小屋へ案内した。そのとき籐太は一首さしあげた。

高き家の君とは見れどしずのお(賤男)の
しばしいたわる山水の里

皇后が返歌をされた。

流れ来て船足とめる方もなく
君に間近き開くわがまゆ

皇后は、自分が流されたわけを籐太に語って聞かせた。
淘汰は、皇后を宿にとめ、いたわり養うことにした。

ある日籐太が、「近ごろふたりの若者が、船に乗って湖をただよい、上の戸の野沢山に登ってなくなったとの話です。これはお身内の方ではないでしょうか。」 というと、
皇后は「それは、行くえ知れずになった仁王子と賢王子でしょう。さがして跡を弔いたい。」 といわれた。

そこで藤太は、さきの流船に柱を立てて、帆を張って、皇后を乗せた。
海原を走り、湖の向こう岸の上の戸に着き、ふたりの王子の跡を尋ねて、八男山という所に登った。

それから下の戸に帰ろうとすると、どこからともなく男の子が来て、船に乗った。
風に従って行くと、ある山へ着いた。家があり、籐太はそこへ皇后を案内した。
夕方になると、女の子が現れ、先の男の子と交代した。
翌日の朝になると、また男の子が来て、女の子が去った。
二日目には男女ふたりの子が来て、籐太が出て行った。
皇后は不審に思い、「籐太はどこへ行ったか。」と問うと、
「炭谷の方へ行きました。あす来ます。」と答えた。翌日籐太がもどって来た。

皇后はここ上の戸で産気づかれ、三人が世話するうちに安産された。
ふたりの童子は、よく働いたが終わると山の上へ飛び去った。
誕生は、武烈二年六月下旬である。これが後の継体天皇である。
またお産の地を今皇産部(あわたべ)という。(ふたりの童子は、部子山の神である。)

王子六才のとき、母君は、王子を連れて都に上った。
ふたりともぼろをまとい、金色のきれを継ぎ合わせて、それを振りふり、御詠歌を唱え、ほどこしを求めながら、七日あまり歩いた。
このことが隠居している仁賢天皇の耳にはいったので、勅使をつかわし、宿屋を尋ねさせ、かの狂女の両足をあらためるに、足につるの羽がはえていた。
勅使定連(さだつら)から報告があつて、若者との御対面がなされた。
武烈天皇は、何か思案があり、在位八年で皇位をこの若君にゆずった。
この君がすなわち継体天皇である。

母君は対面かなわず、泣く泣く越の国へ帰られた。
しかしこのたびは多数の人が送り、またかの地に御殿を建てようと思って帰られた。
炭がまの小屋に来てみると、籐太の歌が一首あった。

わが宿は越路の神と尋ぬべし

上の句だけで、下の句は、宮殿にあると書き残してあった。
よって国内をさがすに、剣神社の戸をあけると、中に色紙に書いた下の句があった。

君と民とのためによろづ代

もう一つ書き付けがあった。
見ると、「この土は金である。炭がまのあたりから取って、国を開け。」とある。

勅使がその土を調べると、砂金である。都に持ち帰って報告した。
よって継体天皇は、この土を数万駄都へ運び、吹き分けて金とし、小判を造って国民に与えた。
母君は、右の炭がまの所に安座された。今の足羽の宮がこれである。

湖の水を落とすため、三里が岩の大山を切りくずしたが、黒竜がさまたげた。これは湖の主である。それで神社を作り、黒竜(くずりゅう)大明神とあがめて、湖を切り落とした。

(剣神社盛衰記)


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青い竜  竜典長者  りゅうでんちょうじゃ

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越前平野にいた青と黒の2匹の竜のうち、青い竜の話
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ずっとむかし、越前地方は一面湖水でしたと。
そのうち上の湖には青い竜が住み、下の湖には黒い竜が住んでいましたと。
下の湖は、おおとの王子がみずから切り落として、そこに住んでいた黒い竜を、黒竜大明神としてまつられたことは、前に話しました。

上の湖の切り落としは、家来の物部佐昌(もののべのすけまさ)公に命じられました。
けれども、なかなかの難事業で、どうしようかと思案していました。

するとある日、若い女が来て、
「わたしは身分のいやしい者ですけど、このお仕事の手伝いをさせてください」 といいました。
公は、 「それでは、ためしに二、三日働いてみい」 といって、使ってみました。

女は、とてもよく働くので、手伝い女としてやとうことにしました。
この女は、毎日働いても、すこしもつかれた色を見せません。
それにこの女は、世の常でない美しさを持っていました。
それでいつのまにか、佐昌公はこの女を愛し、おそばめとしました。

まもなく、女は子どもを身ごもりました。するとある夜、女は、佐昌公にいいました。
「いままでかくしていて、申しわけありませんが、わたくしは人間の女ではありません。
上の湖の主です。この湖には、千年を経た竜が何びきも住んでいます。
いまこの湖を切り落とすと、竜の住むところがなくなってしまいます。
あなたは情けのある人ときいております。
それであなたにお仕えしてお願いすれば、湖を切り落とすことを思いとどまっていただけると考えて、人間の女に姿をかえたのです。
わたしをかわいそうとお思いなら、どうか湖を切り落とすことをやめてください」
女はなみだを流してたのみます。

けれども佐昌公は、 「この仕事は、天皇の命令やでな、わたしのはからいで、やめるわけにはいかないのや。かわいそうやけど、ぜひもない」 といって、いっしょになみだをこぼして、なげかれました。

「それでも、少しばかりは住みかを残してやろう」 と考えて、湖の岸を見回りました。
すると湖の西岸によい江があるので、女に、
「ここは狭い江やけど、深いふちになっているから、がまんして、ここに住んでくれ」 といいました。
竜神は、喜んで、一族とともにこの江にはいりました。それが現在の丹生郡宮崎村江波(えなみ)のふちです。

女は、竜神なので江にはいりましたが、女が佐昌公に仕えて産んだ子どもは、人間なので、水の中へはいれません。仕方がないので、子どもを絹に包んで、江のそばに置き、子どもが泣くと、水から上がって、人間の女になって、子どもに乳をふくませ、自分も悲しくて泣いていました。

江波の里に竜典(りゅうでん)という名の人がいました。女の泣き声を聞いて、ふしぎに思って近づいて来ました。そして、
「おまえは、どうしてこんなところで泣いているのや」 とたずねました。女は、
「わたしは、この江に住む竜神です。けれどもこの子は人間の子なので、水のなかえはいって、わたしといっしょに暮らすことはできません。どうかこの子をもらい受けて、育ててください。
そのご恩返しに、この絹をあげます。この絹は一ぴき(布の長さ、ニ反)ありますが、使うときは二尺(六十センチ)だけ残しておきなさい。すると一夜のうちに、もとの一ぴきになります」 といいました。竜典はあわれに思い、
「それなら、わたしが育ててあげる」 といって、子どもと絹とをもらい受けました。
その後竜典は、その絹をニ尺残しては売り、ニ尺残しては売って、しだいに長者(金持ち)になりましたと。


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黒竜  くずりゆう

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継体天皇の黒龍退治と黒龍神社の起源のはなし
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むかしは、黒竜と書いてクズリュウとよませました。
九頭竜という字をあてるようになったのは、後の世のことです。
ずっとむかし、越前は一面の湖だったそうです。

この湖は、上と下の二つに分かれていたのですと。
そして上の湖には青い竜、下の湖には黒い竜が住んでいたのですと。
この竜は雨を呼ぶ力を持ち、湖をあふれさせ、田も畑も水にしずめてしまうのですと。

継体天皇(けいたいてんのう)がまだおおとの王子といって、越前におられたころ、この竜を退治して、人々を洪水から救ってやろうと思われました。
王子が、足羽山(あすわやま)にのぼって、湖をずっと見渡しますと、はるかかなた、今は、三国町になっているあたりに、大きな岩山があって、湖の水が海へ流れ出るのをさまたげていました。
この岩山を切り破ればよいのですが、黒い竜がじゃまをするので、今までだれも手をつけることができませんでした。

王子は、岩山の方を見つめ、かぶら矢(音が出る矢)を弓につがえて、キリキリと引きしぼり、ビューッと放ちました。
矢は、大きな音をたてながら、湖の上をぐるぐる回っていましたが、やがて岩山をこえて海の方へ飛んで行きました。
すると矢のあとを追って、湖の水がぐんぐん進んで行き、岩山をつき破って海の中へ流れこみました。
しばらくすると、矢はもどって来て、また水の上をぐるぐる回ってから、海の方へ飛んで行きました。
今度も水が矢のあとを追って、岩山をつき破りながら海へながれこみます。
しばらくして、三度矢がもどって来ました。水の上をぐるぐる回って、海の方へ飛び去りますと、水も三度岩山をつき破って、海へ流れて行きました。

三回でもう湖の水はなくなりましたので、矢はもどって来て、足羽山のふもとに落ち、地面につき立ちました。
それでその場所を立矢(たちや)といい、そこにお宮を建てて、その矢を矢立大明神(やたてだいみょうじん)と称しておまつりしました。

岩山がつき破られた所が、三国港のちょうし口です。ちょうし(酒をつぐ器)の口から酒が流れ出るように、湖の水が流れ落ちたのでこの名があります。

湖の水がなくなってできた川が、黒竜川(くずりゅうがわ)です。
王子は、湖の主であった黒い竜をこの川のほとりにまつって、黒竜大明神(くずりゅうだいみょうじん)としました。今は黒竜神社(くろたつじんじゃ)といっています。


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足羽の宮

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継体天皇誕生と母の話、足羽の由来
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この話の中で、仁賢・武烈・継体三天皇の関係、母の名前が、日本書紀などの記述と異なります

むかし、むかし、仁賢(にんけん)という名の天皇がおられました。
その天皇のおきさき(皇后)は、世にもまれな美しい方であられました。
そのころ宮廷に武烈(ぶれつ)という大将がおりました。
武烈は自分が天皇になり、美しいおきさきを自分の妻にしようと考え、悪だくみをめぐらしました。

仁賢は、武烈のすすめにより、酒をのんで政治をおこたりました。
罪のない人をとらえて、ろう屋に入れたりもしました。
そのため仁賢の評判がだんだん悪くなり、ついには天皇の位を退かねばならなくなりました。
そして武烈が代わって天皇になりました。

武烈は、仁賢のおきさきに申しました。
「あなたのような美しい方が、悪い仁賢といっしょにいてはいけません。仁賢と別れて、わたしのきさきになりなさい」
けれども、おきさきは武烈のいうことを、ききませんでした。
武烈は手に持っていたシャク(笏)で、おきさきの両足を、はげしく打ちました。
シャクというのは、むかし身分の高い人が儀式のとき、手に持っていた細長い板のことです。
そのため、おきさきの足は、みるみる黒くはれあがりました。すると、はれあがった傷口が二つにわれて、中から黒い鳥の羽がはえました。
あまりふしぎなので、世の人はこのおきさきのことを、足羽の宮というようになったのですと。

おきさきは、そのとき仁賢天皇のお子を、おなかに身ごもっていました。武烈はそれを知って、
「これはたいへんだ。前の天皇の子を産ませてはならない」 と思いました。

そこで武烈は、おきさきをうつぼ船(丸木をくり抜いた船)にのせて、湖(今のびわ湖)に流しました。
船は流れ流れて、越前(今の福井県)下の戸(今の福井市のあたり)に流れてきました。
むかしは、越前平野は、一面の湖で、伝説の上では、びわ湖と水路がつながっていたようです。

下の戸の山に籐太(とうた)という名の炭焼きが住んでいました。
ある日山で炭を焼いていると、湖の上を船が流れてくるのが見えました。
「あれ、だれか人が乗っているようや。助けてやらにゃ」 と思って、山をかけおり、水の中へ入って、船をおしとどめました。
船の中をのぞくと、世にもまれな気高くまた美しい方が乗っておられるので、籐太はおどろいて、
「ともかく岸までおいでください」 といって、船を岸辺に着け、自分の小屋へ案内しました。
藤太は、「お見受けしますところ、身分の高いお方のように思われます。わたしの家は、このとおり、みすぼらしい小屋ですけれど、しばらくここでお休みください」 と申しあげました。
おきさきは、「わたしは船で流され、遠くまで来ましたが、どこで船をとめてよいかわからずに、困っておりました。あなたに助けられて、やっとうれいがなくなりました」 と申されました。

それからおきさきは、自分が流されたわけを藤太に話して聞かせました。藤太は、お気の毒に思って、
「それでは、ここでお暮らしになって、お子さまをお産みください。わたしがお養いいたします」 と申し上げました。

やがて月が満ち、おきさきは元気な男の子を産みました。そのお子の名を、おおとの王子と申し上げました。

それから六年の月日が過ぎ、王子は六歳になられました。母君は、都が恋しく、
「この子を、父君にお目にかけたい」 と思われました。

でも、むかしの旅は、楽なことではありませんでした。
母君と王子は、ぼろを身にまとい、こじきの姿で都へ旅立たれました。
ふたりは、金色のきれをつないで、長い布きれを作りました。
とちゅうの町や村でその布をふりふり、歌をうたって、ほどこしを求めながら、旅を続けました。
七日間歩いて、やっと都につきました。

前の天皇の仁賢は、隠居しておられましたが、このことを耳にされ、使いの者を宿へ使わされました。使いの者は、、この旅芸人がはたしておきさきであるかどうか確かめるために、
「おまえがおきさきならば、足に羽がはえているはずだ。足を出してみせい」 といいました。
母君が両足を出しますと、足につるの羽がはえていました。

使いの者は、このことを報告して、
「おきさきにまちがいございません」 と申し上げましたので、仁賢は王子と対面され、
「これは、わたしの王子である」 と認められました。
それで、さすがの武烈も、天皇の位を正式の王子であるこの若者にゆずりました。
この若者が継体(けいたい)天皇であります。

しかしどうしたくとか、母君は夫の仁賢との対面が許されず、泣く泣く越前の国へもどられました。
けれども、帰りは多くの人がお供をして、母君を下の戸まで送って参りました。
越前のこの地にりっぱなご殿を建てるよう、継体天皇から命令を受けて、お供して来たのです。

炭がまのある小屋まで来てみますと、藤太はおらず、紙が二枚ありました。
一枚には、「わが宿は、越路(こしじ)の神と尋ぬべし」 とありました。
これは歌の上の句で、下の句がありません。
この句の意味は、藤太はただの炭焼きでなく、越前の神さまであって、下の句を求めて神社をさがしなさい、ということです。
それで家来たちが、越前国中の神社をさがしました。
たずねたずねて丹生郡織田の庄の剣(つるぎ)神社の戸をあけますと、中に紙に書いた下の句がありました。 「君と民とのためによろず世」 これで藤太が剣大明神であることがわかりました。

もう一枚の紙には、
「この山の土は金である。炭がまのあたりから土を取って、国を開きなさい」
とあります。
お供の人たちが、その土を調べてみると、サキン(金の鉱石)でした。使いの者は、急いで都へ帰って、そのことを報告しました。

継体天皇は、この土を数万個のふくろにつめて都へはこばせました。これを吹き分けて(鉱石を火でとかす)金を取り出し、小判をつくりました。そのお金を国民に与えたので、国は豊かになったのですと。

母君は、炭がまのあった所にご殿を建て、そこにお住まいになりました。それが今の足羽のお宮ですと。

 この話の中で、仁賢・武烈・継体三天皇の関係、母の名前が、日本書紀などの記述と異なりますが、こちらは民話ですからご了解ください。






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黒龍物語 (くずりゅう)

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「ふくいむかしばなし」から 黒龍のお話
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むかし越前は、上と下に分かれた大きな湖だった。
上の湖には青い竜、下の湖には黒い竜が住んでおって、下の湖の黒竜は、とてもらんぼう者だった。
黒竜は、雨を呼ぶ力を持っており、暴れだすと湖を氾らんさせて田も畑もしずめてしまうので住民はいつもこまっておった。
第27代継体天皇がまだ男大這(おおとの)王子と名のってこの地におられる頃、時の天皇からの宣旨により黒竜を成敗する事になった。
さっそく王子は、見渡しのいい足羽山に登ってみると大きな岩山があって、その下に黒竜のいるのが見えた。そこで王子は、まずかぶら矢(音のでる矢)を作ることから始めた。やっとの事でかぶら矢ができると、王子は、キリッと岩山と黒竜を見すえおもむろに弓にかぶら矢をつがえ、一気に放った。
矢は、大きな音をたてながら勢いよく湖面を走り、それからぐるぐる回り始めた。するとふしぎな事に、湖面の水が矢に向かって吸いあげられ、その水もろとも岩山に大きな穴をあけた。
それから矢は、もう一度戻ってきて、またぐるぐる回り始めると一突きで黒竜を成敗してしまった。
そしてその矢は、もう一度戻ってくると足羽山のふもとの地面に突きささって立った。そこでその場所を立矢(たちや)と呼び、岩山が突き破られた所がちょうど銚子の酒が流れる様なので“ちょうし口”その湖のあとに流れる川を 黒竜(九頭竜)川と呼んでいる。
王子は、この後、湖の主の黒竜を手厚く葬って、黒竜大明神として、現在の黒龍(くろたつ)神社に祀ってやったといわれている。

「ふくいむかしばなし」 から



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