福井県嶺北地方の黒龍についての伝説や言伝え また、 毛矢黒龍神社に関する言伝えなど

2008年2月20日水曜日

今昔物語 巻第十四 四十五

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黒龍神社、現神主の先祖、藤原利行の父、藤原利仁が今昔物語に出てくるエピソード 。
藤原利仁が新羅国に将軍として出兵しようとしたとき途中山崎で病死した時のエピソード。
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今昔物語 巻第十四 四十五



依調伏法験利仁将軍死語 第四十五
でうぶくのほふのしるしによりてとしひとのしやうぐんしぬることだいしじふご

今は昔、文徳天皇(もんとくてんのう)の御代に、新羅国(しらぎのくに)に仰せ遣わされることがあり、それをこの国が受け入れなかったので、大臣や公卿(くぎょう)の衆議の結果、
「かの国は[  ]天皇の御代に、わが国に服従すると申した。それなのに、このように仰せ遣わすことを受け入れないとあっては将来とも悪かろう。それゆえ、すみやかに軍勢をととのえてかの国を討伐すべきである」と決定され、
当時、鎮守府将軍であった藤原利仁(ふじわらのとしひと)という人を新羅国に派遣した。

利仁は勇敢であり、軍(いくさ)の道に達した者であるので、この仰せを承って後、大いに勇猛心を起して出発したが、多数の剛勇の将士たちを、数えられぬほど多くの船に乗せた。

ところが、かの新羅国ではこのことを知らない。だが、このことのためにさまざまの異変が生じたので、それを占わせると、外国の軍勢が攻め寄せてくるというように占ったので、この国の国王はじめ大臣や公卿は驚き、
「外国から勇猛な軍勢が打ち立ってわが国に攻めてくれば、とうてい手向いして防ぎうるすべもない。それゆえ、ただ三宝(さんぽう)の霊験を深く頼むにこしたことはない」と決定した。

そのころ、大宋国(だいそうこく)に法全阿闇梨(はつせんあじゃり)という方がおられた。
恵果和尚(けいかかしょう)の御弟子(みでし)として真言密教の修法を学び伝えた尊い聖人(しょうにん)であるが、国王は急遽その人を招いて調伏法(ちょうぶくほう)を行わせた。

さて、三井寺(みいでら)の智證大師(ちしょうだいし)は若いころ宋に渡り、この法全阿闇梨を師として真言を学んでおられたが、その大師も師とともに新羅に渡っておいでになった。
だが、阿闇梨が新羅国に招かれたのはわが国調伏のことによってであるとはどうしてご存じになろうか。
ところで、調伏法がすでに七日目の満願になろうとする日、修法の壇上に血がたくさん流れている。
阿闇梨は、「必ずや修法の験(しるし)があったのだ」と言って修法を終え、本国の宋に帰ってしまった。

一方、利仁将軍は出発しようとして山崎で病気になり床に臥(ふ)していたが、にわかに起き上がって走り出し、[  ]に空に向かって太刀を抜き、躍り上がり躍り上がりして、何度も切りつけているうち、倒れて死んでしまった。
そこで、他の人をあらためて派遣することもなく終わった。

その後、智證大師が宋から帰朝され、新羅国に渡った時のことをお語りになったが、それを聞いてわが国の人は、
「なるほど、利仁将軍が死んだのは、その調伏法の験によるものであったのだ」とはじめて合点がいった。
これを思うと、利仁将軍もまったく並々の人ではないと思われる。というのも、そのように空に向かって切りつけたのは、必ずや相手がはっきり目に見えたのであろう。だが、修法の霊験あらたかであったために、即座に死んだのである、とこう語り伝えているということだ。

今昔物語 巻第十四 四十五)




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