福井県嶺北地方の黒龍についての伝説や言伝え また、 毛矢黒龍神社に関する言伝えなど

2008年2月20日水曜日

太平記  巻第二十

-------------------------------------
太平記に記されている黒龍神社前での戦い。このとき神社は焼失している。
--------------------------------------

太平記巻第二十

黒丸城初度軍事付足羽度々軍事
(くろまるのじゃうしょどいくさのことつけたりあすはどどいくさのこと)

新田左中将(さちゆうじやう)義貞(よしさだ)朝臣(あそん)、
去(さる)二月の始(はじめ)に越前(ゑちぜんの)府中の合戦に打勝給(うちかちたまひ)し刻(きざみ)、
国中の敵の城七十(しちじふ)余箇所(よかしよ)を暫時(ざんじ)に責(せめ)落して、
勢(いきほ)ひ又強大(かうだい)になりぬ。

此(この)時山門の大衆、皆旧好(きうかう)を以て内々心を通(かよは)せしかば、
先(まづ)彼(かの)比叡山(ひえいさん)に取上(とりのぼり)て、南方の官軍(くわんぐん)に力を合せ、
京都を責(せめ)られん事は無下(むげ)に輒(たやす)かるべかりしを、
足利(あしかが)尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)、
猶越前の黒丸城(くろまるのじやう)に落残(おちのこり)てをはしけるを、
攻(せめ)落さで上洛(しやうらく)せん事は無念なるべしと、
詮(せん)なき小事に目を懸(かけ)て、大儀を次に成(なさ)れけるこそうたてけれ。

五月二日義貞(よしさだ)朝臣(あそん)、自ら六千(ろくせん)余騎(よき)の勢を率(そつ)して国府(こふ)へ打出(うちいで)られ、
波羅密(はらみ)・安居(はこ)・河合(かはひ)・春近(はるちか)・江守(えもり)五箇所(ごかしよ)へ、五千(ごせん)余騎(よき)の兵をさし向(むけ)られ、足羽城(あすはのじやう)を攻(せめ)させらる。

先(まづ)一番に義貞(よしさだ)朝臣(あそん)のこじうと、一条の少将行実(ゆきざね)朝臣(あそん)、
五百(ごひやく)余騎(よき)にて江守(えもり)より押寄(おしよせ)て、
黒龍(くづれの)明神の前にて相戦ふ。

行実(ゆきざね)の軍(いくさ)利(り)あらずして、又本陣へ引返(ひつかへ)さる。
二番に船田長門(ふなたながとの)守(かみ)政経(まさつね)、七百(しちひやく)余騎(よき)にて安居(はこ)の渡(わたし)より押寄(おしよせ)て、兵半(なかば)河を渡る時、細河(ほそかは)出羽(ではの)守(かみ)二百(にひやく)余騎(よき)にて河向(かはむかひ)に馳合(はせあは)せ、高岸(たかぎし)の上に相支(ささへ)て、散々(さんざん)に射させける間、漲(みなぎ)る浪にをぼれて馬人(むまひと)若干(そくばく)討(うた)れにければ、是(これ)も又差(さし)たる合戦も無(なく)して引返(ひつかへ)す。

三番に細屋(ほそや)右馬助(うまのすけ)、千(せん)余騎(よき)にて河合(かはひ)の庄より押寄(おしよせ)、北(きた)の端(はし)なる勝虎城(しようとらがじやう)を取巻(とりまい)て、即時(そくじ)に攻(せめ)落さんと、屏(へい)につき堀につかりて攻(せめ)ける処へ、鹿草(かぐさ)兵庫(ひやうごの)助(すけ)三百(さんびやく)余騎(よき)にて後攻(ごづめ)にまはり、大勢の中へ懸入(かけいつ)て面(おもて)も振らず攻(せめ)戦ふ。

細屋が勢、城中(じやうちゆう)の敵と後攻(ごづめ)の敵とに追立(おつたて)られて本陣へ引返(ひつかへ)す。
角(かく)て早(はや)寄手(よせて)足羽(あすは)の合戦に、打負(うちまく)る事三箇度(さんがど)に及(およべ)り。
此(この)三人(さんにん)の大将は、皆天下(てんが)の人傑(じんけつ)、武略の名将たりしかども、余(あまり)に敵を侮(あなどつ)て、■(おぎろ)に大早(おほはや)りなりし故(ゆゑ)に、毎度の軍(いくさ)に負(まけ)にけり。
されば、後漢(ごかん)の光武(くわうぶ)、々(ぶ)に臨む毎(ごと)に、「大敵を見ては欺(あざむ)き、小敵を見ては恐(おそれ)よ。」と云(いひ)けるも、理(ことわり)なりと覚(おぼえ)たり。

(太平記 巻第二十)


---------------------------------------

今昔物語 巻第二十六 第十七

--------------------------------------------------------
黒龍神社、現神主の先祖、藤原利行の父、藤原利仁が今昔物語に出てくるエピソード 。
 宇治拾遺物語に同じ題材の話が出ている。
芥川龍之介はこの話を題材に小説『芋粥』を執筆している。
---------------------------------------------------------

今昔物語 巻第二十六 第十七
利仁将軍若時従京敦賀将行五位語 第十七
としひとのしょうぐんわかきとききょうよりつるがにごいをいてゆくことだいじふひち



今は昔、利仁(としひと)将軍という人がおった。
若いころ、[藤原基経(ふじわらのもとつね)]という時の関白に仕える侍であった。
越前国の[ ]有仁(ありひと)という裕福な豪族の婿でもあったから、つねにその国に出かけていっていた。

ある年、主人の屋敷で正月の大饗(だいきょう)が行われた。
当時は大饗が終ったあと、取食(とりばみ)といわれる乞食は追い払って中に入れず、大饗のお下がりはこの屋敷の侍どもが食う習わしになっていた。
ところで、この関白家に長年仕えて幅をきかしていた五位の侍がいた。
大饗のお下さがりを侍たちが食っている中にこの五位もいて、その座で芋粥をすすり、舌鼓を打って、
「ああ、なんとかして腹いっぱい芋粥がたべたいものよ」と言う。
利仁がこれを聞き、
「大夫殿よ。まだ腹いっぱい芋粥をお上がりになったことはないのですか」と言うと、五位は、
「まだ思いきり食べたことはないのですわ」と答えた。そこで利仁が、
「それなら十分に召し上がっていただきたいものだ」と言うと、五位は、
「そう願えれば、どんなにかうれしいことでござろう」と言って、その日はそのままに終わった。

その後、四、五日ほどして、この五位は、屋敷内に自分の部屋をもらっていたので、そこに利仁がやってきて、五位に向かい、
「さあまいりましょう大夫殿、東山の近くに湯を沸かしてある所がありますから」と言う。
五位は、「それはまことにうれしい。昨夜は、どうも体がかゆくて、よう寝つかれもしませんでしたよ。だが、あいにくと乗り物が」と言いかけると、
利仁が、「いや馬ならここにあります」と言う。
「それはありがたい」と言った五位の、その姿を見ると、薄い綿入れ二枚ほど重ね、裾の破れた青鈍色(あおにびいろ)の指貫(さしぬき)に、同じ色の狩衣(かりぎぬ)の肩の折目の少しくずれたものを着て、下の袴はつけず、高い鼻のその鼻先は赤らみ、穴のまわりがひどく濡れているのは、「鼻水をろくにぬぐいのしないのか」と思われる。
狩衣の後ろは帯に引っ張られてゆがんでいるが、それを直そうともしないのか、ゆがんだままなので、おかしい格好だが、その五位を先に立て、ともに馬に乗って加茂川原さして出かける。
五位の供には卑しい小童(こわらわ)さえいない。
利仁も供には武具持ちの者一人と舎人男(とねりおとこ)一人だけ引き連れた。

さて、川原を過ぎ粟田口(あわたぐち)にさしかかると、五位が、「その場所はどこですか」と言う。
利仁は、「すぐそこです」と言ったが、いつしか山科(やましな)も過ぎた。
五位は、「すぐだとのことだが、山科も過ぎましたよ」と言うと、「いや、すぐそこですよ」と言いつつ関山(せきやま)も過ぎ、三井寺の知人の僧の坊に行ついた。
五位は、「さてはここで湯を沸かしたのか」と思い、「それにしてもひどく遠くに来たものだ」と思っていると、坊主の僧が出てきて、「これは思いがけぬおいでで」と言って、接待に走り回る。

だが、湯はありそうにも見えない。五位が、「どうしたのですか、湯は」と尋ねると、利仁は、「じつは敦賀(つるが)におつれするのです」と言った。
これを聞いた五位が、「なんとも常規を逸したお方だ。京でそうおっしゃっていたら、下人なども連れてこようものを、まるっきり供も連れず、そんな遠い道をなんでいけるものですかね。怖しいこと」と言うと、
利仁はおもしろそうに笑って、「なに、わたしがおりますからには千人とお思いくだされ」と言ったが、まさに道理至極である。
こおして食事を終え、急いで出発した。利仁はここで初めて胡録(やなぐい)を取り、背に負った。

さて行くうちに、三津(みつ)の浜のあたりで狐が一匹走り出た。
利仁はこれを見て、「よい使いがはしってきたぞ」と言って狐めがけて襲いかかると、
狐は命からがら逃げだしたが、しゃにむに追いかけられ、逃げきれなかったところを、利仁は馬の横腹に身を落し、狐の後ろ足をつかんで引き上げた。
乗った馬はさほどすぐれものとも見えないが、じつはすばらしい駿馬(しゅんめ)であったので、そう遠くも追わず追いついたのだ。
五位が狐の捕えられた所に馳せついて見ると、利仁は狐を引っ下げて、
「おい狐、今夜中に、わしの敦賀の家に行ってこう言え。『急にお客様をお連れして下ることになった。明日の巳の時(午前十時ごろ)、高島のあたりに馬二頭に鞍を置いて、男どもが迎へにくるように』とな。もしこれを言わぬものなら、わかっているな。狐よすぐやってみろ。狐は変化のものだから、必ず今日中に行き着いて言え」と言って放つ。
五位が、「これはまた当てにならない御使者ですな」と言うと、利仁は、「見ていてごらんなされ、行かぬはずはありませんよ」と言ったが、それと同時に、狐は本当に振り返り振り返り先に走っていく。
見る見るうちに姿が見えなくなった。

さて、その夜は道中一泊した。翌朝早く出立して先を急いでいると、本当に巳の時ごろ、二、三十町ほど先を一団となってやってくる者がある。
「なんだろうか」と見ていると、利仁が、「昨日の狐が向こうに着いて告げたのです。それで男どもがやってきたのです」と言ったが、五位は、「さて、どんなものですかな」と言っているうちに、みるみる近づいてきて、ばらばらと馬から飛び降りると同時に、「それ見よ。本当においでなされたではないか」と言う。
利仁は微笑んで、「どうした」ときくと、中で主だった朗等(ろうどう)が前に進み寄ったので、それに、「馬はあるか」ときく。「二頭おります」と答え、ほかに食物などととのえて持参したので、馬を降りてそのあたりにすわり食事をした。

その折、さきの主だった朗等が、「じつは昨夜、不思議なことがございました」と言う。
利仁が、「どういうことか」と尋ねると、郎等は、
「昨夜、戌の時ごろ(午後八時ごろ)奥様がにわかに胸に非常な痛みを覚えられましたので、『どうしたことか』と思っておりますと、ご自身で『わたしは、ほかでもございませんが、今日の昼、三津の浜で利仁様が急に京より下ってこられたのにお会いいたしましたので、逃げ出しましたが、どうにも逃げおおせず、つかまってしまいました。その時、利仁様が、『お前は今日中にわしの家に行き着き、「おれはお客人をお連れして急に下ることになったが、明日の巳の時、馬二頭に鞍を置いて、男どもが高島のあたりまで迎えにくるように」とこう言え。もし今日中に行きついて言わなかったなら、ひどい目にあわせるぞ』と仰せられました。ですから、御家来衆、すぐに出かけてください。遅くなっては、わたしがお叱りを受けることでしょう』と言っておびえ騒がれましたが、大殿が、『なに、たやすいことだ』と言われ、男どもを召してお命じになるや、たちどころに正気にもどられました。その後、夜明けの鶏の声と同時にわれわれは、出てきたのでございます」と言った。
利仁はこれを聞いてにっこり笑い、五位に目くばせすると、五位はあきれる思いで聞いていた。

さて食事が終わって、急いで立っていったが、日の暮れ方に家に着いた。
「それ見ろ。本当だった」と、家じゅうの者が大騒ぎをして迎える。
五位は馬から降りて家の様子を見ると、いいようもないほど裕福である。
初め着ていた二枚の着物の上に利仁の夜着まで着たが、腹もへっていてひどく寒そうな様子なので、火鉢にたくさん火を[おこし]て、畳を厚く敷き、その上に果物や菓子を並べたが、じつに豪勢である。
「道中、お寒かったでしょう」と言って、練色の着物に綿の厚く入ったのを三枚重ねてかけてくれたので、なんともいえずいい気分になった。

やがて食事が終わり、あたりが静かになってから、舅の有仁がやってきて、利仁に
「いったいどういうことで、このようにだしぬけにお下りになり、あのようなお使いをいただいたのか。どうも常規を逸してますな。あなたの奥方がにわかに発病され、まことにお気の毒なことでしたよ」と言うと、利仁は笑って、
「どうするか試してみようと存じて申したのですが、本当にやってきて告げたのですね」と言う。
舅も笑いながら、「驚き入ったことです」と言って、
「いったいお連れになった方とは、ここにおいでの方のことですか」と尋ねる。
「さようです。『芋粥をまだ腹いっぱいあがったことがない』と仰せられるので、十二分にあがっていただこうと思い、お連れ申したのです」と利仁が言うと、舅は、
「それはまたぞうさもないものに満足なさらなかったことですね」とたわむれ言を言うと、五位は、
「いや、この方が東山に湯を沸かしてあると、わたしをだまして連れ出し、こんなことをおっしゃるのですよ」などと言い、互いに冗談ごとを言い合っているうち、少し夜が更けたので、舅は自分の部屋に帰っていった。

五位も寝所とおぼしき所に入って寝ようとすると、そこに綿の厚さ四、五寸(約十二から十五センチ)もある直垂(ひたたれ)が置いてあった。
もと着ていた薄い着物は着心地が悪く、また何がいるのか、かゆいところも出てきたので、みな脱ぎ捨て、練色の着物三枚重ねた上にこの直垂を引きおおって横になった気持ちといったら、いまだ経験したこともないほどで、汗びっしょりになって寝ていると、そばに人の入ってくる気配がした。
「だれだ」ときくと、女の声で、「『おみ足をあさすり申せ』と言われましたので、まいりました」と言う様子がなかなかかわいいので、抱き寄せて、風が入ってくる所に寝かせた。

やがて、「騒がしい声が聞こえるがなんだろう」と思って聞いていると、男の叫び声がして、
「この近くの下人どもよく聞け。明朝卯の時(午前六時ごろ)に、切り口三寸、長さ五尺の山芋をめいめい一本ずつ持ってこい」と言っているようだ。
「あらいことを言うものだ」と思いながら眠ってしまった。
さて、まだ夜明けのころに、庭に莚(むしろ)を敷く音が聞こえた。
「何をしているのだろう」と聞いていたが、夜が明けて蔀戸(しとみど)を開けた時、見ると、長莚が四、五枚敷いてある。
「何に使うのか」と思っていると、下人が木の様なものを一本その上に置ていった。
そのあと次々に持ってきては置いていったのを見れば、本当に切り口三、四寸、長さ五、六尺ほどもある山芋であった。
それを巳の時まで次々と置いていったので、自分のいる寝所の軒丈ほどに積み上げた。
昨夜叫んだのは、実はそのあたりに住むすべての下人に命令を伝達する人呼びの丘という丘の上で叫んだのであった。
その声の届く範囲の下人どもが持ってきたのでさえ、こんなに多い。
まして、遠く離れた所にいる従者はどれほど多いか、思いやられる。

「いやはや、驚いたことだ」と見ていると、一石(約百八十リットル)入りの釜を五つ六つほど担いできて、急いで何本も杭を打ち、その釜をずらりとすえ並べた。
「何をするのか」と見ているうち、白い布の襖(あお)というものを着て、腰の辺りに帯紐を締めた、若くこぎれいな下女どもが、白く新しい桶に水を入れて持ってきて、これらの釜に入れる。
「何の湯を沸かすのだろう」と見ていると、この水と見えたのはあまずらの汁であった。
また、若い男どもが十人余り出てきて、袖をたくし上げ、長く薄い刀でこの山芋の皮を削ってはなで切りに切る。
いわずと知れた、芋粥を煮るのだ。これを見ると、もはや食べる気もせず、かえってげんなりしてしまった。
ぐつぐつと煮返して、「芋粥ができ上がったよ」と言うと、「ではさしあげよ」と言って、大きな土器で、銀の提(ひさげ)の一斗(約十八リットル)ほど入るものに三、四杯くみ入れて持ってくる。
一杯さえも食べられず、「もう腹いっぱいです」と言うと、みんなどっと笑い、その場に集まりすわって、「お客様のおかげで、芋粥が食べられるぞ」など口々に冗談を言い合った。

その時、向いの家の軒に狐がのぞいているのを利仁が見つけ、
「ごらんなさい。昨日の狐が会いたがっていますよ」と言い、
下人に「あれに何か食い物をやれ」と命じたので、食わせると、それを食って行ってしまった。

このようにして五位は一月ほど滞在していたが、なにかにつけて言いようもなく楽しい。
その後、京に上ったが、土産に普段着・晴れ着の衣装を何枚もととのえて渡され、綾・絹・綿などをいくつもの行李(こうり)に入れてもらった。
初めの衣装と夜着などはいうまでもない。
その他、よい馬に鞍を置き、物など添えてくれたので、それらをみなもらい、すっかり物持ちになって上京した。

実際、長年勤め上げて、人々から重んじられている者には、自然とこういうことがあるものだ、とこう語り伝えているということだ。

(今昔物語 巻第二十六 第十七)


----------------------------

今昔物語 巻第十四 四十五

--------------------------------------------------------
黒龍神社、現神主の先祖、藤原利行の父、藤原利仁が今昔物語に出てくるエピソード 。
藤原利仁が新羅国に将軍として出兵しようとしたとき途中山崎で病死した時のエピソード。
---------------------------------------------------------

今昔物語 巻第十四 四十五



依調伏法験利仁将軍死語 第四十五
でうぶくのほふのしるしによりてとしひとのしやうぐんしぬることだいしじふご

今は昔、文徳天皇(もんとくてんのう)の御代に、新羅国(しらぎのくに)に仰せ遣わされることがあり、それをこの国が受け入れなかったので、大臣や公卿(くぎょう)の衆議の結果、
「かの国は[  ]天皇の御代に、わが国に服従すると申した。それなのに、このように仰せ遣わすことを受け入れないとあっては将来とも悪かろう。それゆえ、すみやかに軍勢をととのえてかの国を討伐すべきである」と決定され、
当時、鎮守府将軍であった藤原利仁(ふじわらのとしひと)という人を新羅国に派遣した。

利仁は勇敢であり、軍(いくさ)の道に達した者であるので、この仰せを承って後、大いに勇猛心を起して出発したが、多数の剛勇の将士たちを、数えられぬほど多くの船に乗せた。

ところが、かの新羅国ではこのことを知らない。だが、このことのためにさまざまの異変が生じたので、それを占わせると、外国の軍勢が攻め寄せてくるというように占ったので、この国の国王はじめ大臣や公卿は驚き、
「外国から勇猛な軍勢が打ち立ってわが国に攻めてくれば、とうてい手向いして防ぎうるすべもない。それゆえ、ただ三宝(さんぽう)の霊験を深く頼むにこしたことはない」と決定した。

そのころ、大宋国(だいそうこく)に法全阿闇梨(はつせんあじゃり)という方がおられた。
恵果和尚(けいかかしょう)の御弟子(みでし)として真言密教の修法を学び伝えた尊い聖人(しょうにん)であるが、国王は急遽その人を招いて調伏法(ちょうぶくほう)を行わせた。

さて、三井寺(みいでら)の智證大師(ちしょうだいし)は若いころ宋に渡り、この法全阿闇梨を師として真言を学んでおられたが、その大師も師とともに新羅に渡っておいでになった。
だが、阿闇梨が新羅国に招かれたのはわが国調伏のことによってであるとはどうしてご存じになろうか。
ところで、調伏法がすでに七日目の満願になろうとする日、修法の壇上に血がたくさん流れている。
阿闇梨は、「必ずや修法の験(しるし)があったのだ」と言って修法を終え、本国の宋に帰ってしまった。

一方、利仁将軍は出発しようとして山崎で病気になり床に臥(ふ)していたが、にわかに起き上がって走り出し、[  ]に空に向かって太刀を抜き、躍り上がり躍り上がりして、何度も切りつけているうち、倒れて死んでしまった。
そこで、他の人をあらためて派遣することもなく終わった。

その後、智證大師が宋から帰朝され、新羅国に渡った時のことをお語りになったが、それを聞いてわが国の人は、
「なるほど、利仁将軍が死んだのは、その調伏法の験によるものであったのだ」とはじめて合点がいった。
これを思うと、利仁将軍もまったく並々の人ではないと思われる。というのも、そのように空に向かって切りつけたのは、必ずや相手がはっきり目に見えたのであろう。だが、修法の霊験あらたかであったために、即座に死んだのである、とこう語り伝えているということだ。

今昔物語 巻第十四 四十五)




------------------------------

ブログ アーカイブ