福井県嶺北地方の黒龍についての伝説や言伝え また、 毛矢黒龍神社に関する言伝えなど

2008年2月19日火曜日

黒龍神社 年表 (一)


四七七   男大迹王(継体天皇)が越前国の日野、足羽、黒龍の三大河の治水の大工事を行われ、
       北国無双の大河であった黒龍川(九頭龍)の守護と国家鎮護産業興隆を祈願され
       高龗大神(黒龍大神)、闇龗大神(白龍大神)の御二柱の御霊を高尾郷黒龍村毛谷の杜
       (現在の舟橋から6.5粁上流の川の中央に位置)に創祀された。

..............    この後、毛谷の杜より舟橋に社殿が移築された。

七〇八  高志連村君(こしのむらじ・むらぎみ)が四十三代
元明天皇御代和銅元甲年九月二十日
      継体天皇の御遺徳を景仰し御霊を合祀された。

七八四  延暦三年八月社殿が火災で焼失し坂上苅田麻呂
(さかのうえのかりたまろ、
      坂上田村麻呂の父)が再建したと伝えられる。

九二七  延喜式に越前国坂井郡 毛谷神社[ケタニ]として記載

九三一  藤原利行 朱雀帝御宇承平元年越前国黒龍村、
毛谷神社神職となる。 山本家祖先

..............  利行は、藤原利仁の四男、房前の子孫として生まれ、
祖先は鎌足や魚名までさかのぼる。
..............  利行は、[890頃~920頃]越前国角鹿(現在・敦賀)に
生まれ、同国額田の郷
       好彦の女聘種子妻となし丹生の山本(今立郡山本庄)に住む、これにより山本姓となる。
..............  延喜十二年[912]勅命により父利仁が挙兵、奥賊
下野国高坐山に栖む蔵安蔵宗の
       二賊を討つ (『鞍馬蓋寺縁起』) 官軍に従い戦い重傷を負い越前に帰国。その後、
       毛谷神社神職となる。


..............  .利行の父、藤原利仁(ふじわらのとしひと、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。
..............  911年(延喜11年)上野介となる。以後上総介・武蔵守など
坂東の国司を歴任し、
      この間915年(延喜15年)に鎮守府将軍に任じられるなど平安時代の代表的な武人として
      伝説化され、多くの説話が残されている。
.............  『今昔物語集』(巻第二十六の十七)の中にある、
五位の者に芋粥を食べさせようと
      京都から敦賀の舘へ連れ帰った話は有名である(芥川龍之介はこの話を題材に
      小説『芋粥』を執筆している)

九三三  承平三年 生江の世常(いくえのよつね)が夢で神さまからの
お告げがあり、社殿をつくりかえた。

.............  生江の世常は、今昔物語[巻17-47]や
宇治拾遺物語[巻15-7]に話が載っている。

一〇三四  長元七年八月、坂井郡の二面長者
(ふたおもてのちょうじゃ)が海で暴風にあい、
       毛谷神社に祈ったところ、危うく難を免れたので、お礼のため神田を寄進して社殿を改修した。

一〇五九  後冷泉院御宇康平二年 北陸道七箇国押領使 
疋田越前守為頼 毛谷神社信仰仰有て
       社殿造営あり為神膳料正蓮花村田五町被供 神職行将を為頼の侍従に被召出 
       神勤は舎弟藤原行良に譲る

一三二九  九十六代後醍醐天皇御代元徳元年十二月
神託により越前守参議藤原国房公
        斉屋清水(今の百坂)の上に御社殿を建立され 元鎮座の地名を合わせて「毛谷黒龍神社」と
        尊称し また、元神社名をとり麓一帯は“毛谷の里”と呼ばれ、祭りは数多くの奉賛行事で賑い
        盛儀がおこなわれた。

..................  元徳元年六月一日、
羽倉部祐海(はくらべのすけみ)が夢で毛谷神社を 善住山(足羽山)に
        移すよう神のお告げがあった。
        しかし彼は貧しくその財源がなかったので、越前国司藤原国房に陳情した。 同年十二月国房は、
        これを聞き入れ、毛谷神社を足羽山の中腹、 斎屋清水(ゆやのしょず)の上に移築したという。
        いまの百坂の中腹あたりかもしれない。

一三三八  二十四代藤原行古 光明院御宇暦応元年五月二日
左中将義貞に従軍し藤島の里に戦死
        暦応元年五月、新田義貞が斯波高経と戦ったとき、 黒龍神社も兵火にかかり燃える

..................  このとき神霊は、白龍となって山上に飛び、木の上にとまった。
.................  そこで、このあたりを竜ヶ岡(たつがおか)と呼ぶようになった。
.................  いまの三段広場の少し下、山本条太郎像が建っているあたり。

.................       「太平記」巻第二十に黒龍明神下での戦いが記載あり

一三四四   新田義貞が戦死し、斯波高経が越前を支配したため、高経は康永三年神社の仮社殿をつくった。

(黒龍神社 年表 (二) につづく)




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