福井県嶺北地方の黒龍についての伝説や言伝え また、 毛矢黒龍神社に関する言伝えなど

2008年2月19日火曜日

足羽の宮

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継体天皇誕生と母の話、足羽の由来
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この話の中で、仁賢・武烈・継体三天皇の関係、母の名前が、日本書紀などの記述と異なります

むかし、むかし、仁賢(にんけん)という名の天皇がおられました。
その天皇のおきさき(皇后)は、世にもまれな美しい方であられました。
そのころ宮廷に武烈(ぶれつ)という大将がおりました。
武烈は自分が天皇になり、美しいおきさきを自分の妻にしようと考え、悪だくみをめぐらしました。

仁賢は、武烈のすすめにより、酒をのんで政治をおこたりました。
罪のない人をとらえて、ろう屋に入れたりもしました。
そのため仁賢の評判がだんだん悪くなり、ついには天皇の位を退かねばならなくなりました。
そして武烈が代わって天皇になりました。

武烈は、仁賢のおきさきに申しました。
「あなたのような美しい方が、悪い仁賢といっしょにいてはいけません。仁賢と別れて、わたしのきさきになりなさい」
けれども、おきさきは武烈のいうことを、ききませんでした。
武烈は手に持っていたシャク(笏)で、おきさきの両足を、はげしく打ちました。
シャクというのは、むかし身分の高い人が儀式のとき、手に持っていた細長い板のことです。
そのため、おきさきの足は、みるみる黒くはれあがりました。すると、はれあがった傷口が二つにわれて、中から黒い鳥の羽がはえました。
あまりふしぎなので、世の人はこのおきさきのことを、足羽の宮というようになったのですと。

おきさきは、そのとき仁賢天皇のお子を、おなかに身ごもっていました。武烈はそれを知って、
「これはたいへんだ。前の天皇の子を産ませてはならない」 と思いました。

そこで武烈は、おきさきをうつぼ船(丸木をくり抜いた船)にのせて、湖(今のびわ湖)に流しました。
船は流れ流れて、越前(今の福井県)下の戸(今の福井市のあたり)に流れてきました。
むかしは、越前平野は、一面の湖で、伝説の上では、びわ湖と水路がつながっていたようです。

下の戸の山に籐太(とうた)という名の炭焼きが住んでいました。
ある日山で炭を焼いていると、湖の上を船が流れてくるのが見えました。
「あれ、だれか人が乗っているようや。助けてやらにゃ」 と思って、山をかけおり、水の中へ入って、船をおしとどめました。
船の中をのぞくと、世にもまれな気高くまた美しい方が乗っておられるので、籐太はおどろいて、
「ともかく岸までおいでください」 といって、船を岸辺に着け、自分の小屋へ案内しました。
藤太は、「お見受けしますところ、身分の高いお方のように思われます。わたしの家は、このとおり、みすぼらしい小屋ですけれど、しばらくここでお休みください」 と申しあげました。
おきさきは、「わたしは船で流され、遠くまで来ましたが、どこで船をとめてよいかわからずに、困っておりました。あなたに助けられて、やっとうれいがなくなりました」 と申されました。

それからおきさきは、自分が流されたわけを藤太に話して聞かせました。藤太は、お気の毒に思って、
「それでは、ここでお暮らしになって、お子さまをお産みください。わたしがお養いいたします」 と申し上げました。

やがて月が満ち、おきさきは元気な男の子を産みました。そのお子の名を、おおとの王子と申し上げました。

それから六年の月日が過ぎ、王子は六歳になられました。母君は、都が恋しく、
「この子を、父君にお目にかけたい」 と思われました。

でも、むかしの旅は、楽なことではありませんでした。
母君と王子は、ぼろを身にまとい、こじきの姿で都へ旅立たれました。
ふたりは、金色のきれをつないで、長い布きれを作りました。
とちゅうの町や村でその布をふりふり、歌をうたって、ほどこしを求めながら、旅を続けました。
七日間歩いて、やっと都につきました。

前の天皇の仁賢は、隠居しておられましたが、このことを耳にされ、使いの者を宿へ使わされました。使いの者は、、この旅芸人がはたしておきさきであるかどうか確かめるために、
「おまえがおきさきならば、足に羽がはえているはずだ。足を出してみせい」 といいました。
母君が両足を出しますと、足につるの羽がはえていました。

使いの者は、このことを報告して、
「おきさきにまちがいございません」 と申し上げましたので、仁賢は王子と対面され、
「これは、わたしの王子である」 と認められました。
それで、さすがの武烈も、天皇の位を正式の王子であるこの若者にゆずりました。
この若者が継体(けいたい)天皇であります。

しかしどうしたくとか、母君は夫の仁賢との対面が許されず、泣く泣く越前の国へもどられました。
けれども、帰りは多くの人がお供をして、母君を下の戸まで送って参りました。
越前のこの地にりっぱなご殿を建てるよう、継体天皇から命令を受けて、お供して来たのです。

炭がまのある小屋まで来てみますと、藤太はおらず、紙が二枚ありました。
一枚には、「わが宿は、越路(こしじ)の神と尋ぬべし」 とありました。
これは歌の上の句で、下の句がありません。
この句の意味は、藤太はただの炭焼きでなく、越前の神さまであって、下の句を求めて神社をさがしなさい、ということです。
それで家来たちが、越前国中の神社をさがしました。
たずねたずねて丹生郡織田の庄の剣(つるぎ)神社の戸をあけますと、中に紙に書いた下の句がありました。 「君と民とのためによろず世」 これで藤太が剣大明神であることがわかりました。

もう一枚の紙には、
「この山の土は金である。炭がまのあたりから土を取って、国を開きなさい」
とあります。
お供の人たちが、その土を調べてみると、サキン(金の鉱石)でした。使いの者は、急いで都へ帰って、そのことを報告しました。

継体天皇は、この土を数万個のふくろにつめて都へはこばせました。これを吹き分けて(鉱石を火でとかす)金を取り出し、小判をつくりました。そのお金を国民に与えたので、国は豊かになったのですと。

母君は、炭がまのあった所にご殿を建て、そこにお住まいになりました。それが今の足羽のお宮ですと。

 この話の中で、仁賢・武烈・継体三天皇の関係、母の名前が、日本書紀などの記述と異なりますが、こちらは民話ですからご了解ください。






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