福井県嶺北地方の黒龍についての伝説や言伝え また、 毛矢黒龍神社に関する言伝えなど

2008年2月19日火曜日

継体天皇 (福井城の今昔から)

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継体天皇の言い伝えと、足羽明神、館町の由来
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館屋(たちや)の加輿丁(かよちょう)の起源は、むかしおおと皇子三才のおり、父を失い、母の振姫(ふりひめ)に伴われて当国坂井郡高向(たかむく)の宮に来られたが、そのときこし(輿)に付き添いしたがった十七人の者が加輿丁である。
あるいは皇子を背負い参らせて当国に来たともいう。

皇子が天皇になられて後は、馬来田(まきた)皇女を足羽明神の斎宮と定め、加輿丁を皇女に附属せしめた。
それ以後は、皇女のこしにお供し、皇女なき後はその陵墓を守った。

また足羽神社のみこしをかつぐのもこの加輿丁の家筋に限り、冬は社殿の雪おろしも彼らの仕事であった。
足羽社に奉仕する神主十八人、禰宜四人、執当役者六人、勾当社人上下十三人、下祝七人計四十八戸および加輿丁十七戸は、足羽山のふもと大将軍の社を中心に居館を構えていた。

これが館屋(たちや)の名義の起源で、中古には立矢と書き、明治七年の町名改正で館(やかた)町と称するようになった。

(福井城の今昔)から


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